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「あの娘が海辺で踊ってる」を観た


【第24回東京学生映画祭】あの娘が海辺で踊ってる【予告編】
衝撃だった。

あ の 娘 が 海 辺 で 踊 っ て る

現役大学生のつくりだした、衝撃だ
この映画は、昨年十一月ポレポレ東中野での異例の大ヒットのあと、「二度目の処女革命」という唄い文句で今年二月十六日から六日間、オーディトリウム渋谷にて再上映された。五日目に観に行ったことを悔やんだ。もっと早く出会っていたかった。それでも、出会えなければ不幸だったに違いない。

鑑賞直後、放心状態で渋谷の街を駆け抜けた。言葉で表現するのがもったいないくらい、よかった、全速力で走った。

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舞台は熱海の田舎町。

さざなみ、ふらっとスカートを揺らせば飛び込めそうな底、スカートと太ももの距離、十代の少女と不規則に並ぶ机、底はしっかり透明な、水色の声。 

 

AKBに憧れる、アイドル志望の美少女 舞子はこの田舎町でみんなから嫌われている。でも彼女だってみんなのことを好きではない。「友達、いないの?」と言葉を投げつけられると、わたしの友達は海だけなの、菅原は恋人なの。と、彼女は高いところから投げ返す。

処女性、とはなんだろう。同性愛と言ってしまうのは簡単すぎる、もっと強烈な、誰かを求める激しい激しい熱情、同一化への欲望。わたしとあなたの間の膜が透明で透明で、境界がどこなのかわからないくらい。ひとりでは存在できない、だからわたしはあなたを求める。いつでも一緒にいられることを疑わない、重なり合えないことを知らない、今だけしか見えない透明さ、きらきら、どろどろした透明さ。
処女性とは、女性だけのものでないように思う。誰だって、はじめは持っていた宝石のようなものだ。それが、どんどん打ち砕かれてゆき、ほとんどのひとにとって懐かしい過去になってしまった。
身体や役割が分化され、消費される性と消費する性にあてはめられて、重ねれば重なるほど、違う生き物であることが露わになる。寄り添うときの、二つで一つになれたような錯覚だけが、ただ嬉しくて幸福だ、そんな今の淋しさに問いかける。この物語は錯覚が錯覚でなかった頃を思い出させる映画だ。

 

ずっと、大好きな女の子がいたのを思い出した。ふたりで永遠に一緒にいられるのだとおもっていた。彼女に恋人ができたとき、悲しみと憎しみが消えなかった。ずっとじぶんのもので、だれのところにもいかないでほしかった。私だけを見てくれる君はもう不在だ、その事実から逃げ出したかった。離れたくて、でも離れたくなくて、お互いに泣いていた。東京に発った三年後、出会い直したとき、「あのときに、出会えてよかった」とわたしたちは笑いあった。

 

正しく出会えていたのかは、出会わなくてはいけなかったのかは、一度喪ったあとにやっとわかるのだと思う。

舞子と菅原にもそんな数年後がくるのだろうか

山戸監督、どうでしょうか。

 

『あの娘が海辺で踊ってる』

公式サイト:http://anoko-dance.com/

twitter:@anoko_dance

逃してしまった方、四月にチャンスがあります

「愛のゆくえ(仮)」×「あの娘が海辺で踊ってる(完全版)」@ポレポレ坐 4/20(土)18:30〜 詳細 http://aikari.exblog.jp/17351963/

みなさま、いっしょに行きましょう

連絡くださればチケットとりますよ!