快適なもので、いつも今あるものを覆っている

 

お湯のでないシャワーを浴びている。

 

ちょうど二年前、わたしが引っ越した寮は、冬の朝になるとお湯が水に変身してしまうなんともつめたい魔法にかけられている。夜だけはお湯が出るのだけれど、ただ、二十本の足があたたかさを求めながら並んでいる浴室前に踏み入れる気がしなかった。だれもいない朝のために眠りにつく、この季節になるといつ目覚めたのかわからない意識の中でいつも水を浴びにいく。

 

水は冷たいものでしょうか、じつはときどきぬるま湯のように少し熱を帯びているようなときもある。今朝の水は、あたたかかった。なぜかというと私の身体がとても冷えていたからである。自分の体温を基準にして、外気の温度が測られてゆく。どうしようもなくからだが冷凍庫のように芯まで冷え切って、あたたかさに飢えているときはそんなに熱さのないものに触れても「あたたかい」と感じてしまうだろうし、自分自体が熱を帯びているときは外の温度は関係なく、ただ内部の熱にやられている。自分の持っている熱がすべてなのだ。自分の温度と比較した上でしか外の世界の温度を「実感」として受け取ることができない。それは本当にあたたかいものなのかも、冷え切ったものなのかも、正直わからない。

 

「妊婦の腹を蹴って流産させたい」とあの子が言った。

 

私は妊婦ではない。妊娠したこともない。私とはちがう肉の塊、水の詰まった肉が私の肉の中に宿るという不可思議な体験は、なまぬるい想像でしかない。それでも、言いようのない感覚がどよめき、その場から逃げだしてしまった。なぜ私はそれを不快に感じたのか。重ね合わせる行為は勝手な共感であり勝手な解釈である。同じ場所を訪れ、同じものを見て、同じものを食べるときこそ、共感ができないと彼は言っていた。この先、一度も、共通の体験は誰ともできない。私はあなたにはなれないし、あなたも私にはなれないからだ。構成されている細胞が違うからだ。感受する心身の温度が違うからだ。私が男の身体に産まれていたら、静かに笑って過ごせるのでしょうか。私が妊婦それ自体だったら、同じように逃げ出すでしょうか。それでも、勝手な共感をされて勝手な解釈をされて、だれかの心の灯になる本が名著でありました。わたしたちは消費されませんか、いいえ、かならず消費されていきます。同時にあなたを消費しています。奪われないよ。どんどん奪っていけよ。私は減らないのだ。この季節だけは、あなたの本になれますか。存在そのものが作品である人は常にだれかの琴線にふれる何かであり、癒しであり、救いであるのだけれど、そのときにはもう人間ではなくなってしまうのかもしれない。一方的な呼吸だけがそこにある。本のなかにいるあなたの呼吸の苦しさを感じても、人工呼吸器をあなたには取り付けには、いけない。わたしはあなたの未来でしかない。差し出された本には過去しかない。本を書くあなたは確かにいるのに、あなたそのものをわたしは抱きしめられず、口づけもできず、温度を感じることは、できません。実体のない存在。奪われない限りにおいて、消費は悲しみではないのだ。遠い街で、「人間をモノ扱いしてはいけません」と習ったことがあります。人間性、人格、そういう不明確で気持ち悪く曖昧な「人間らしさ」を讃える歌が流れていたのです。あれは雨の日の街角で老婆が口ずさむ讃美歌でした。生き物には、命というものが宿っているということでしょうか。その手で掴めるなら、その腕で抱けるなら、簡単に壊せてしまう脆く繊細なそれにあなたは触れられますか。動物と人間を文節で区切るきっかけはなんですか。「ことば」でしょうか。あなたは持続する沈黙に応答ができますか。

 

ラフマニノフを聴くとき、雨の音は聴こえない。窓を見つめれば、ガラスに伝う粒の存在に気付けて、雨の日だということに気付く。新しいもので、快適なもので、いつも今あるものを覆っている。何年かしたら、わたしは雨の音がどんな音だったかだんだんと忘れていくだろう。慣れた温度に身を置いて、慣れたバスタブに浸かり続けることを、はたして永遠だと思えるでしょうか。