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「サベツ」って言葉は本当に使いづらいな。

 先日、一般社団法人・人工知能学会の学会誌が、大幅にリニューアルし、その表紙が新しいものとなった。(性別ははっきりとはわからないが)女体の形(視覚的には女性と認識されるだろう姿)をしたアンドロイドが掃除をしているイラストが選ばれた。その件についてネット上(主に目にしたのはツイッターである)でいろんな意見が飛び交っていた。

※ちなみにこんな感じで「この表紙は女性蔑視なのか?」と、まとめられている。 http://togetter.com/li/607736

 

 それは女性差別だ!」派、(非モテ男と自称している)「女性差別?!男性だって苦しい!」派、「サベツがどうの面倒だし関わりたくねーし表紙可愛いし別に問題ないだろ」派、「女をレイプしたいハァハァ」派まで、いろんな立場の人をフォローするようにしているため、ここ最近はその話題について様々な切り口の言説が流れてきた、が、読むだけにとどめ、自分の言葉としては何も発信せずにいた。

 

 

しかし、今朝、この記事を目にして言葉があふれてきたので書き留めたい。

 

そしてオタクたちは、また迫害されていく - 狐の王国

 

 

 

 

まず、真っ先に浮かんだのは、弱者ってなんだろう。という疑問である。そこで、こんな図を書いてみた。

 【見づらいというご指摘があったので再投稿しました】

 

 

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図「男とか女とかの権力ピラミッド」(わかりづらくてすみません)

 

今回は、この図の中間に位置する、弱者男性vsフェミみたいな対立が起きているのである。

 反論する女性らの発言はこんな感じである。(もっとドギツイ言い方の呟きも多くあったが引用はしていない)

 

・「弱い男」がいることと《「男」が「弱者」である》といった類の主張は、似ているようでまったく違うと思う。

 

・オタクは社会で利益を得られていないから、自分のしたいことをしてもいい。自分に正直なだけで差別はしていない。という主張には同意しない。

 

・「(異性)モテ」から排除されていることに悔しさや無力感を抱いている非モテ男性と、「(異性)モテ」の価値付けを否定するフェミ女性は、奴隷を所有できないことに悔しさや無力感を抱いている者と、奴隷制そのものを否定する者に似ていると思う。前者が弱者白人で後者が黒人といった感じ。

 

 

などである。女性が全く声を出せずにいた過去と比較すれば、自由な論争が可能なフィールドが存在している、その点だけで大きな進歩ではある。しかし、「“でも”自分だってかわいそうだ!」の言い争いになってしまって、被害者格付けレースになっている。それでは、対立しか生まない。目の前の人間が「どのように苦しいのか」「どんな個人的な歴史が背景にあるのか」に眼を向けられない限り、断絶は埋まらない。

 

たいがい、立場の弱い人が声を荒らげたり悲痛の叫び、汚い言葉を使うことをマジョリティや非当事者は許さない。うるさいと、耳を塞ぐのだ。「不快感のない、わかりやすい言葉じゃないなら、聞いてやらない」という感じに。

 

今まで弱い立場にあって散々抑圧され苦しんできたからこそ、余裕がなくなっている。綺麗に自分を語れる心はない。その人らに寄り添って、「なんでそこまで苦しんできたのか」を想像すれば、聞く耳が持てる。けれど、多くはそんなに労力を割こうとはしない。別に知らなくても生きていけるし、特に不自由はないと思えるからだ。結局、自分の肌に直接触れる、傷つく可能性のある生身の問題だと感じない限り、どうでもいいのだ。しかし、進んで知ろうとはしないこと、それこそが「立場が強い」「加害者・差別者の危険性を持っている」ことの裏返しである。

 

 

こんな反論が飛び交う。

「女性差別」というがお前らだって「男性を差別している!お前らだって差別主義者だろ!」というものだ。確かに、ツイッターのフェミ界隈の人々の言葉は攻撃的な印象を受ける。私は、表現にこだわりがある。だから、語る前に一息ついて、汚かったり怖い表現をなるべく控えるようにしている。彼女らの呟きを自分のアカウントでRTすることはほとんどないし、毎日「強い言葉」を受け取るのは辛いし、(大変失礼だが)気持ちよさげにdisるその表現の仕方が嫌いだから、フォローの選択に悩んでしまう。しかし、彼女らの呟き内容に頷いている自分がおり、ふぁぼを押すことは多い。

 

最初に紹介したブログを読むと、「確かに男性もつらいよな。フェミの人そこまで言わんでもいいのに。」と流されそうになる自分がいた。しかし、「男の辛さ」で「女の辛さ」を覆ってしまう。女性の苦しみを置き去りにしてしまう。そこに、恐ろしさがあるのだと思う。ジュディス・L・ハーマンが「中立でいようとすれば必ず強者に道を譲ってしまう」社会構造があるのだと言っていたが、まさにその通りで、見えない“力”に負けそうになる。

また、女性問題が「奴隷問題」と同等に語られることをよく目にするが、少し過激に感じてしまう。むしろ、青い芝の会のような、障害者の権利問題のほうが、私は重ねやすい。

 

※70年代の日本障害者運動

http://w01.tp1.jp/~a151770011/ayumi.html

川崎バスセンターにおいて「バス闘争」を展開(当時全国各地で公共バスへの車椅子障害者に対する乗車拒否が相次いで起こっていた。こうした状況を打開するために行った。この事が当時の社会にあたえた影響は絶大なものであり、以降の各県における公的交通機関への無条件乗車に向けた闘いの大きなインパクトとなった。)

 

 

「私は虐げられてきた」と言う人の言葉は時に刺々しく、あまりにまっすぐな怒りの表現であるために、受け取り手は不快感を伴う。しかしそれは、“差別をしている”をというよりは、“加害属性への然るべき怒り”が偏った形で表れてしまっただけなのかもしれないとも思う。傷ついてきたぶん、言葉が荒く強くなってしまう。そうしないと自分が崩れてしまうからである。

 

あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。

 

というガンジーの言葉を、なんとなく、思い出した。

 

 

完璧な人間なんていない。“フェミニスト”に限らず、誰だって内なる差別意識を持っているだろう。自分が経験したことがない部分、経験する可能性が低い部分に対しては想像力が低下する。自分にあまり関係ない部分には、恐ろしいくらい鈍感になって、なんてことない顔で目の前の他人を切り刻んでしまう時がある。○○差別反対!と言う人が、また違う△△を見下したり、粗雑に扱ってしまうことは少なくはない。

ただ、「お前だって、△△のこと差別してるじゃん!(だから○○に対する発言権はない!口をつぐめ!)」と批判して、○○差別の存在をうまく消し去り、“サベツを語る人間の在り方論”にすりかえてしまう現象にはうんざりする。本当にやめたほうがいいと思う。この時、△△より、○○のほうが深刻な問題であることは多い。

「○○について語らせたくない」という裏には、自分の加害者性から目をそらしたいという弱さがあるのではないか。

 

 

 

「差別」が語られるとき、一時的な「不快感」にとどまらず、そこにはあまりに悲痛な、虐げられた歴史が存在している。それを学んでいるか、いないかでは、解釈や表現に大きな差が生じる。これがわかりやすい例である。

 

 

ああ。しかしなあ、「サベツ」という言葉に出会うと戸惑ってしまう。だってなんか怖いんだもの。「差別が」と繰り返せば、煙たがられてしまうし、歩み寄る前に、誤解や拒絶を生じさせる。それはこの言葉を使う人を、「全面的な被害者」役だと錯覚させるから、そうして、「加害行為者だって生身の人間であること」を忘れさせるから。そんな側面があるから、いつも注意して使わなければならない言葉なんだよなあ。

はあ、新年早々、乱文失礼しました。