「中途半端に顔のいい“メンヘラ”はしょうもないよなー」という話をした

 

 高田馬場で飲むタイビール。一年ぶりだろうか、懐かしさこみ上げながら親しい兄ちゃんに久々に会ってきた。トムヤムクンラーメンが美しすぎて、何杯も体内に容れたいという欲求。香辛料がにゅるんと染み渡った生春巻きが辛くて、汗が噴き出るほどに、夏にかえったように、くそ熱い。ああ、とても美味しかった。

 タイトルが良くなかった。今日のお題は「中途半端に顔のいい“メンヘラ”はしょうもないよなー」である。彼がぼそっと呟いたこの言葉を自分なりに広げていこうと思う。

 

つい最近「長谷川さんって、心の弱い人が嫌いなの?そのままでいたがる人を“あなたは変われる”といって引っ張っていきたいの?弱いままじゃ、だめなの…?」と訴えかけられたことがあった。 (ちなみに私は長谷川という名をしている)

 

 「心の弱い人」の定義としては、自尊感情の薄い人、何かに依存してしまう人、といったものが浮かぶのだけれど、どうだろう(言葉の定義は人それぞれ大幅に違うことが常なのでその都度互いに揃える必要がある)。しかし「自尊感情が薄い」も「依存する」も誰だって持ちうる状態だ。もっと近い表現として、「心が弱る」と「自尊感情の低さ故に不健康な依存の仕方をしてしまう」人がしっくりくるのかな、と思う。不健康な依存の仕方とはつまり、自分の穴がさらに深まるような、特定のものに対する自傷的行動を指すのだと考える。おいらの好きな先生が「自立とは依存先が複数あり、しかるべき場所に“助けて”と言えることである」と言っていたのを参考にすると、「健康な依存(自立)」に相反する「不健康な依存」とは、少ない依存先にどっぷり浸かり、“助けて”の代わりに自傷行為するしかない状態のことなんじゃないかな。

 そこで、初めの問いに戻るわけですが、「長谷川さんって心の弱い人が嫌いなの?」に対して「心の弱いひとが利用されていくのを見ているのが嫌い」加えて「心の弱いひとが(結果傷つくのに)自分を利用される商品に仕立て上げることが辛い」が答えとなります。

 

 生涯忘れないであろう、「信用していない人に頼ることを“利用”といいます」という名言がある。

 「弱い人」が自尊感情の薄さゆえに「断れない」「嫌われたくない」「自分を乱暴に扱ってしまう」そんな背景なんてお構いなしに、その人から楽しながらイイトコ取りしようとする輩が必ずいる。「君が必要なんだ!」といって、自分がただすっきりするための愚痴や悪口をひたすら聞かせたり、癒しのペット扱いしたり、身の回りの雑用をやらせたり、セックスをねだったりする。「必要とされている」という一時的な安心感はそりゃ得られますが、やっぱり部分的・表面的な承認なわけで、どこか違和感が残る(違和感さえなくなっていたら危険信号です)。そんな状態で生きていると、寂しさの解消の仕方が「一時的な承認」に偏ってしまう。長期的に人に利用されていくと、生きやすくなるための選択肢が奪われます。逃げ場もなくなるし。今「君が必要だ」と、ちやほやしてくれる人は、10年後も同じことを言うだろうか。あなたがさらに病もうと最終的に自殺しようと、自分が直面せずに済むならば、どうでもいいんじゃないか。結局他人事だから、どんなに生きづらくなろうと、今が楽しければなんでもいい。あなたが将来この社会で生きやすくなるための選択肢を増やせるよう考えるなら、安易なものであなたを継ぎはぎしようとはしないでしょう。あなたの脆さを安易に消費したりはしないでしょう。代替え可能な価値は使い捨て、誰でもいいわけだ。そういう扱いする人ばかりではない、それに気付けるためには今の環境を手放さないといけない。自分で人生の舵を取ろうとしなければ、決して出会えない。

  

自尊感情の薄いとき、自分の価値の所在がわからない。ほんとうは、存在そのものに価値が宿っているのだが、それを実感として得られない。誰かが「あなたは価値がある」と言ってくれるかもしれない。ただそれは、「可愛い(イケメン)」だとか「○○の才能がある」だとか「金がある」だとか条件付けられた価値であり、無条件なものではない。だから、根本的な寂しさを抱えた、何者でもない、何もできないあなたは満たされるはずがない。誰かの指し示す価値のなかで充足感を求めても、果たして満たされることがあるのだろうか。自尊感情を持っていないと、他者からの表面的な褒め合いに縛られてしまう。自分がどう生きたいか、自分にとって何が歓びなのか・不快なのか、そういうものよりも他者に一時的にでも満たされることを優先してしまう。

 

 冒頭の「中途半端に顔のいい“メンヘラ”はしょうもないよなー」というセリフに、ウッ?!ときた人は結構いるのではないか。

 

 「メンヘラ」という言葉が何を指しているのかよくわからないのであまり断定的に使わないようにしているのだけど、彼の言葉が指すのは、精神的な脆さ・歪みが原因となり、社会適応に著しい困難が生じたり、コミュニケーションが恐ろしいほど不得意で、親密で対等な他者関係をうまく作れない人のことなのかな、と想像した。しかし、中途半端に顔がいいと、対人関係がうまくいかない原因である内面をフォーカスしないまま、とりあえず、ちやほやしてくる人が現れ、なんとなく生きていけちゃった系みたいになる(残念ながら、歳を重ねるたびになんとかならなくなる)。また、あわよくば、と性的対象にもされやすいし、顔目当てで寄ってきた奴に「期待通りの人じゃない」と勝手に突き放されることもあるようだ。いい迷惑である。

 顔面至上主義な価値観を持つ人にとっては他者を「かわいい・美人・イケメン」などと褒めることは全く悪いことではないらしい。単に思ったから、褒めているだけだという。ただ、その対象が「美しさは長所の一つ(他にも自分は素晴らしいところがいっぱいある)。ありがと!」とさらっと受け止められる人なら問題ないが、自尊感情が低い人の場合、その人が「容姿」に自分の価値の唯一を押し込んでしまう危険性があるんじゃないか?その価値が優先され、承認されることを望む日々が始まりはしないか?ある程度の年齢までなら市場価値としての「容姿」は充足されるが、人はかならず老いるのだ、ある日プツンと消え失せてしまう時がくる。それ以降、どう生きていくか。他者に承認され難くなった「私」はどう生きていけばいいのか、どんな「私」であればいいのか、露頭に迷ってしまう。つらい。とてもつらい。成長できないまま、取り返しのつかない所に来てしまっても、誰も助けない。誰も救ってはくれない。自分をただ表面的に満たしてくれる安堵感を手放す勇気を持てなければ、ただ、良いように利用されて消費されて、ジ・エンド。その果てで「誰も信用できない!」と泣いてもやってくるのは「救いたがりマン」ばっかりだ。長期的に関われるわけない、手に負えなくなったらすぐに逃げ出す、自分の都合のいい時にだけ、一緒にいてあげたいの!、そうほほ笑む人に期待してはいけない。奪われない自分を作らない限り、「信頼」も「頼る」もわからないまま、しょうもない人生になる。

こういった私の暑苦しいメッセージに対して、「そんなに強く在れない。アンタうるさいYO」と反響する場合もあるだろう、その時はその人にとっては押しつけに過ぎないのだし、個人的に関わらないでいようと思う。ごめんちゃ。

 

 私はよく、誰もが「NOの言える関係性」を築けることを願ったりする。自尊感情を取り戻す・育むために、他人に好かれるか嫌われるか(必要とされる)という他人の定める価値観の中から抜けて、【自分の中の不快・快の感情を自覚し、そして、それを親しく在りたい人間に伝える勇気を持つ】このプロセスが必要だと思っている。「それは嫌だ」と伝えても、相手がそれを無視するような人間ならば、離れていい(自分の価値観を雑に扱う人を許さなくていい)のだし、関わり続けるのは時間の無駄だ。あるいは、表面的に上手くやれていても、NOの部分を誤魔化して「好き♡幸せ♡」といくら言えても後から「本当はさァ…あの時さ…不快だった…最悪…」と、さつまいもの蔓を引っ張るみたいにずるっと溢れて暴露されて、関係がぎくしゃくし、お互いにつらくなっちゃうんだよね。表面的な優しさや肯定に甘んじず、傷つきも引き受けあえる関係を築けたら逆に楽なのかもしれない。ひどく傷つかないと得られないものは何より価値があるような気もする。それと、同時に「YESの部分」も伝えて、そこを豊かにできたらサイコ―に楽しいだろうな。

 

 改めて「親しい関係」ってなんだろうなと立ち止まる。正直、「友人」っていうのもよくわからなくなるときはある。ただ、相手が変わっていこうとするのを阻む関係では決してないはずだ。弱っているときは支え合えたらいい。ただずっと「私と同族の、弱いあなたでいてほしい」という空気は不気味で仕方ない。集団を構成する根底に、そんな部分的な好意や仲間意識を感じる時、すごく嫌な気分になる。ある共通部分がなくなれば、ある条件を喪えば、「親しさ」も簡単に途切れてしまうのだろうか。そこで、この記事を思い出した。

 

ネグレクトは私のせいじゃない - 父は会社に殺されたと思う

 “私がおかしいと思うのはここ。友達同士、いつも足を引っ張り合っている、自分と同じ世界に居てくれないと気が済まない。幸せになろうとする友達の邪魔をしあう。” 

 

 

 ここ最近ずっと「他人にこう在ってほしいと望むこと」は「人を変えようとすること」、つまり「在りのままのその人を否定すること」で「支配・暴力だ」という感覚が抜けなかった。時に甘えたり、時に堕落したり、時にダメになっちゃうのは、人間だもの、そりゃあることだ。しかし、ずっとそのままでいては、時が経って、とある地点で「戻れなくなる」という懸念がある。それは、幻想なんだろうか。国家試験に疲れ果てた私の妄想ということで終わらせていいだろうか。

 

  酒を呑みながら、「お前は“支配”という言葉にとらわれすぎだし、悪いイメージを持ちすぎ。長期的にその人が変わっていけるように“援助”するという考え方できんのか」という兄ちゃんからの叱咤を受けた。とても新鮮だったし、嬉しかった。会う頻度の多さが「親密さ」を決定する要因とは限らない。長い間かけて、ゆっくりと会い続けたい人である。

 

 

そうだな、この記事のただしい題名は、「中途半端に顔のいい“メンヘラ”の取り巻きってしょうもないよなー」かもしれないな。