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人と食事することが怖かった

 

上京するまでの17年間、田舎の一軒家で学生時代を過ごしていた。

私はこの家で生活することがあんまり好きではなかった。深夜は奇声が響いて怖かったし、笑い声があふれた記憶がないし、友達に紹介できない恥ずかしい家(家族)だと思っていた。中でも、食事の時間がなにより嫌いだった。

私の母(A子さん)はいつも手作りの料理を食卓に並べてくれた(休みのないハードな部活動が6年間続いても毎日早起きしてお弁当を持たせてくれた)。小さいころは煮物や漬物の美味しさがわからずにいたけど、20代の今、帰省して彼女の手料理を口にすると、すごく幸せな気持ちになる。美味しい、美味しい、と笑顔で伝えている。

そんなA子さんは食卓を囲んだ後愚痴をこぼしたり泣いていることもあった。姑(私から見ると祖母だ)に「不味い」とか言われたり、露骨に嫌な顔をされたりしていたからだ。家族全員が揃う食卓は不穏な雰囲気が漂うことがほとんどだった。父親はというと、食事そっちのけで新聞やTVを観に席を立つことがほとんどだった。「ごはん出来たよ」という声を無視して食卓に人が揃わない日もよくあった(自分も携帯に夢中でご飯が冷めてしまい怒られる事も多かった)。毎回、母を庇うように、できればおかわりして、「美味しい」と言いながら食事を取ろうとしていた。みんなが明るく過ごせるよう一生懸命喋り沈黙を破った。料理の味なんてわからなかった。場を取り繕うことに精一杯で、味わう余裕なんてなかった。嫌いなものが出ても、絶対に嫌いだなんて言えなかった。家から一歩出れば、人とご飯を食べることをできるだけ避けた。20歳ごろまでそれは根底にあった。人と一緒になにかを楽しむ、という経験が乏しく、ひとりで済むことは人と共有する必要ない、共有する意味がわからない、という感覚が根強くあった。食事に対してのこの感覚は、「他人と時間を過ごすこと」「他人と(性的)接触をすること」等にも感染してしまって、ある時期までの私は、いくら他者に囲まれていても安心できたことがなかったのだ。

 

上京して、新たな友達も増え、毎日が楽しかった。友達の家に遊びに行って手作り料理をごちそうになることも多々あった。すると、絶対に「口に合わない」と言えない自分がいた。ほんの少しのダメだしも、怖くてできない。ビクビクしてしまう。悲しんでる彼女の顔が脳裏に染みついてしまっているんだと思った。それは、とても恐ろしいことだった。

 

食事なんてどうでもいいと思っていた。仲良くなりたい人とは会話をして考え方を知れればそれだけで十分だから、ご飯を一緒にする店なんてどんでもいいと思っていた。できれば、言葉だけで付き合っていたかった。身体を居合わせることが無駄な事のように思えていた。身体を使って「味わう」ということが出来なかった。

 

しかし、印象的な人間達に出会って少しずつ変化が生じた。

ある女性は調理の仕事をしていた。「料理をする過程に納得がいかない。食(生き物)が大切にされていないと思う。」といって店長と喧嘩し、辞表を出したという。私にはその発言が衝撃的だった。また、同じ時期に、添い寝をする関係(性的なものは無)の男の子がいた。彼と過ごすとき、ほんとうの意味で、はじめて他者に触れることができた。身体をつかって、他者の時間を味わうことができた。思い返すと、よく鍋やカレーを一緒に作った(真冬だった)。泣きそうになるくらい、楽しかった。それは、うまれてはじめての気持ちだった。

しばらくすると、シェアハウスにお邪魔するようになった。私以外の客人も多くいて、10人以上で食卓を囲むこともあった。「家族」がつらい記憶で埋め尽くされていたので、「家族」という言葉に嫌悪感を感じて生きてきたのに、「家族っぽいな」と安心し、疑似家族のような状態を受け入れることができた。気を遣う必要がなかった。なんとなく、存在していていい場所だった。みんなで囲む手料理は美味しかった。このころから、「美味しい」という気持ちを取り戻せてきたのだと思う。

 

それからも、いろいろな人にお世話になった。友人や恋人にはいろいろな場所へ連れて行ってもらった。特に目上の方は、美味しい食事をご馳走してくださることも多かった。「美味しいものを与えてもらった」経験は、どんなに月日が経とうと身体に染みついていく。身体は覚えているので、驚いてしまう。それは絶対に消え褪せない経験だし、誰にも奪われてはいけない経験だ。

 

東京生活5年目に突入した今、自炊に励む日々が続いている。誰かの作ってくれた料理を味わうことを歓べるようになってからというもの、自分もそういうものを作れるようになりたいと思い始めてきたのだ。17年間過ごしてきた実家での「食」は、つらい記憶しかないのだけれど、それを塗り替えられたらいいな、と今は思う。一緒にご飯を食べること自体に時間を割き、それを丁寧に味わえるかが、他者を愛し親密になる上で重要な事で、それができない関係性ならば、捨ててしまってよいのだ。我慢してまで守りたかったものによって自分が救われる事はきっと少ない。感情や感覚をなかったことにしてしまえば、一時的には乗り越えられた気になるけど、少なからず後遺症が残る。「痛かった」気持ちを誤魔化してはいけない。忘れようとした「痛み」を取り戻すのには長い月日と他者のぬくもりが必要になるのだから。

今、人と食事することは、ちっとも怖いことじゃない。少しずつ、少しずつ、私は他者と共に、回復してきているのかもしれない。