海では在れない

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さみしくて 見にきたひとの 気持ちなど 海はしつこく 尋ねはしない

 

パン屋のパンセ―歌集 (かばんBOOKS)

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 ひとりで海へ行ってきた。

岩場に寝転んで、風が靡けば時間を忘れて、ときどき思いもよらぬ波に濡らされて

 

 

激しい静けさを持った人が好きだ。

なにをもって他人に惹かれるか、という問いに応えられるときはもう失ったあとであるのだが、ひとつ確かなことは、どう在ろうとしているか、その意志、他人に己を変えられまいとするプライドである。ひとは時々矛盾してしまうものであること、それを受け入れてもなお、私はそういう人が好きだ。

 

 

海に行かない日々が続いた。それはなぜか。いつも身近に他人がいてくれたからだ。過去の苦しさを汚らしく晒したって、抱きしめてもらえていたからだ。それは本当に恐ろしいことであるのに、安堵の中に満たされた気になって、海の代わりの人間をいつも求めるようになったからだ。(海に代わることのできる人間がもし実在するとしたら、その人は、ひどくきれいなのにずっと奥まで汚れてしまっているだろう)(誰も海に代われない)

 

 

他人に慰めてもらうことを気持ち悪いことで情けないことだと思っていた。

すこし心を痛めるたびに、他人の肌のぬくもりと甘い塗り薬を言葉に乗せてもらおうとする人を嫌悪していた。自分の痛みは自分だけのものであるのだから、自他の皮膚と皮膚を重ね傷口を縫い合わせること、自分の問題に他人を巻き込んでしまうことを許せなかった。

だから、自分ひとりで自分を癒す方法をずっと模索し続けていた。そのひとつが音楽(歌)であった。生命が誕生するためには父とか母とか(親と)名づけられている存在が必要となる。私は父のことを父だと思ったことはない(何度も思おうとしたけどできなかった)。けれど、私に音楽をおしえてくれた最初の人間が父だった。だから、出会えたことをほんとうにうれしく思う。

幼少期に出会った宝物には、成人した今、出会うことはできない。「出会わされてしまったもの」、「出会ってしまったもの」、「出会いに行ったもの」は、それぞれ別物で、最初の二つは意図的にどうこうできるものではない。

 

きちんと膜を張る。内側から伸びて、伸びて、外界ぎりぎりまで張り巡らせる。誰も入れないように、きちんと扉を閉めていく。それからは、誰にも触れられない海に沈んでいく。こういうことが何より大切なのだ。

 

だのに、ここ数カ月、私は、ひとに癒されたい、と思ってしまった。

 

扉を全開にして浸食しようとした。なんて愚かなことだろうか。愛する、という言葉はきっと、この状態とはかけ離れたものである。

この危機感を持てなくなったら、人と人は、おしまいであるのに。

 

「あなたも生身の生命体である」、それを忘れてしまう、自己本位でしかなくなる。

「さみしいから」他人を浸食していくことは、人殺しと似ている。

浸食を防ぐためには、対価(に感じられる)交換をしなくてはならない。

例えば、ひと肌に温められたいなら、金を払うこと。(もちろん、金を払ったからといって好きにいじって壊していいわけではない)

例えば、一方的に話を聞いてほしいなら、金を払うこと。(もちろん、金を払ったからといって相手の心を抉るような暴言が許されるわけではない)

他人に癒されようとするのなら、金を払ったほうがいい。 

 一方的に求められたり、一方的に与えられることがいかに苦しいか、知っているのに、自分も同じことをしようとしていた。

 

目的の外側にしか、ほんとうのものは現れてはくれない。癒されまいとするもの同士が偶然出会ってしまって、想像してもいなかったタイミングで抱き合ってしまう、それだけが、たくさんの色彩であふれて、下のほうから澄んでいって、こころ満ち足りていく瞬間なのだ。

 自分ひとりで自分を抱きしめられない人が常に他人に癒されようとしているのを見ていると、そうじゃないでしょう、と、強く、強く思う。同様に、他人に抱いてもらおうと必死なひとを拒否できず構ってあげてしまう人もとても寂しい人だと思う。

 

 

 

昨晩、かつて添い寝フレンドと呼んでいた人に電話をかけた。

そっと、海みたいな静けさで、

「寂しさを埋めてもらうためだけに、

他人を求め他人と一緒に居るわけではないのだから」と、彼は言った。

 

 

 

情けなくなって、海へ走り出した。

忘れかけていたことを、ちゃんと思い出せた気がした。

黄色い太鼓を鳴らして、海辺で踊っている子どもたちがいた。涙が止まらなくなった。

「おとなになった時とはいつか?(大人と子どもの線引きはどこか)」という問いの答えは、 子どもの頃に戻りたい、と思ってしまった時である。

そう、誰かが言っていたのを思い出す。

「あなたといると小学生に戻った気持ちを思い出すのよ」何度も言われてきたのだけど、残念ながら、わたしはだんだんと、おとなに近づいてきてしまっていることに気付く。懐かしくて、さめざめ泣きながら、自転車をこいだ。

 

 

ちょうど、こんな言葉が流れてきた。

「愛するとは、独りでいるのに飽きたことだ。したがって、卑怯であり、自分自身に対する裏切りだ。(愛さないのが、我々にとってこの上なく大切なことだ)」(フェルナンド・ペソア

 

こどもで在るというのは、他人を愛さない(愛せない)ことだ。自分のパレットそれだけで出会う世界に色を塗ってゆけることだ。

こどもでありつつ、おとなになってゆくことはできるのだろうか。自分以外の他人の色を借りて世界を鮮やかにできるだろうか。わたしの涙のかわりにあなたは泣いてくれたのだろうか。目の前のあなたの涙は一体いつの涙なのだろうか・・・。

息絶えるまでの、大きな、ひどく大きな課題ができてしまった。

 

 

静かな夜、一本の指でからだを繋いで添い寝する

たった一度しかなかった夜である

「でも別々の人間だから」と言うように、片方は目を覚ます

自分の部屋へとそっと戻ってゆく

片方はずっと眠ったままである

幻想だとわかっていても、一本を結って、手離して、また結ってゆく

たった一度しかなかった夜である

 

生きていることを嬉しいと思えた瞬間を手放さずにいられるならまだ生きてゆける

かなしくてはち切れそうになるけれど、自分の記憶だけでしか生き残れない

確かなのは、エピソードでなく、無重力のあの瞬間でしかない

強引に、作り直した過去に支えられている人を誰も嘲笑ったりできない

たった一度しかなかった夜である

 

たった一度しか なかった夜である