無題

20歳の頃、アダルトビデオを人生で一度も見たことがないという男の人と親しくなった。彼は自分が痴漢に遭った話を静かに語ってくれた。自分の性自認がよくわからないようなことも言っていた。おれ、女々しいらしい、とよく笑った。恋人とのコミュニケーションとしての性的接触に限定すれば賛成だが、それ以外はどうしても受け付けられないようだった。ハグは好きだが、性器接触も興味がないと言っていた。

19歳の冬にバイト先の店長から性暴力に遭い、必死で逃げ帰った後、身体に付着した精液をシャワーで一生懸命流した。次の冬には最寄駅のエスカレータで同じ歳くらいの男性にスカートの中を盗撮された。どちらも被害届の甲斐なしで犯人には逃げられてしまった。泣きながら、マフラーを巻き直して警察署を出た。ひとりで居られず、その彼に電話をかけた。私が理由を語れずとも、いつもの寝巻姿で招き入れてくれた。一緒に大根を切って、鍋を煮た。添い寝して、朝が来て、腕の中でわんわん泣いた。よくよく思い出すと、自分は小学生の頃から痴漢被害に何度も遭っていた。両親がノンセクシュアル(非性愛者・他者との性的共有欲を抱かない)やAセクシュアル(無性愛者・他者に恋愛感情を抱かない)っぽい感じだったので、家庭内で性的な話題は存在していなかった。だから、痴漢に遭ったことを親に言っていいかわからなかった。10年経ち、それは決して恥じることでもなく、自分が傷ついたその事実を語ってよいのだと学んでからは、私は声を持った。すると、ネット上でたくさんの実体験が寄せられるようになった。静かに語られる事実は、重々しい。あまりに重すぎて、目を背けたくなるものばかりだ。ピア・カウンセリングのようなもので、女性に限らず、男性からも、性自認が定まらない方からも、トランスジェンダーの方からも、被害届そして加害届(!)が寄せられた。どんなに傷ついたとしても、人は生き続けることで他者の人生と交差する瞬間に巡りあえる。奇妙な距離感だからこそ、語れる傷や罪の意識もあるのだと、再確認させられた。

人から性的に欲情される気持ち悪さが内面化されすぎており「他者を性的対象にすることは悪いことだ」と、親しい人との性行為もどこか冷静さと罪悪感がぬぐえなかった。そんな風にこじらせていたせいか、「罪悪感で、女性と性的関係が築けない」「女性を性的に傷つけてきたのではないか」と加害者意識に悩む男性陣も一定数集まることがあった。とても臆病な人達だと思った。もう対話できない過去の人間の、当時の感情や傷つきを推測して己の加害者性に思いを馳せているという印象だった。過去は戻せないので、今度こそ、また誰かと、対話する勇気を持ってほしいとも思った。

ずっと押し殺してきた、自分の感情を露わにし、声にならない声を上げ、やっと自分の言葉を並べられた時、人は何かから解放される。知らずのうちに、涙があふれる。それは、生々しい言葉を受け止めてくれる他者が居てくれなければ成り立たない過程である。聞き手の存在に、心が絞られていく気がする。溝に沈んだ苦い液体がただしく濾過されていくような、不思議な感覚である。

性暴力被害後、男性嫌悪が加速して、親しい男性に向かって「去勢してほしい」などと言っていた。2年後、再会し「あの言葉は僕の男性性を真っ向から否定するもので、大変傷ついた」と言われた。何度も謝罪したが、彼の心がそれで癒えるわけはない。それでもなんとなく友人として時々会える関係性に落ち着いたことを大変ありがたいと思っている。性暴力に遭い続け、被害者性に囚われてしまうと、加害行為者個人を超えて男性そのものを否定したくなってしまいがちだ。今それを、とても歪んでいる感情だと理解している。仕方ないくらいに、行き場のない傷でもあると思う。こんな夜もあった。水道橋の飲み屋街で、喧嘩になり「君の考えは歪んでいるよ!性犯罪に遭ってしまったからでしょう。僕には理解できない」と怒鳴られ、少しの沈黙の後、「私の痛みをなんでわかってくれないんだ!!!」と無茶苦茶になった。生まれて初めて人に怒りをぶつけられた人みたいだった。あの夜を懐かしく思う。決して他人事ではなく、寄り添うわけでも理解者になるわけでもなく、目線を合わせ、ただ自分の意見を述べてくれた、その無頓着とも取れる言葉によって、気遣いのない言葉によって、私は言葉を取り戻し、自分の感情の深さを知った。

 

コミュニケーションを望みあった親密関係の中で、片側から「あなたのせいで傷ついた」と一方的に責められても、その言葉によって罪悪感に悩まされすぎなくてよいのだとも思う。自分も深く傷ついたことを認めるより、自分は生粋の加害者だと抽象的に責めたほうがちょっと楽になることもあるんだよなあ。自分がしてしまったことを具体的に言語化できたのなら、あなたはもう大丈夫だよと言いたい。そもそも、親しい間柄における性暴力(性器挿入に限らない)に関しては誰もが被害者・加害者になる側面がある。だいたいがグレーゾーンである。自分は悪人だとか加害者だとか被害者だとか決めつけるにはまだ早いんじゃないかしら。コミュニケーションを望みあった結果なら、生粋の加害者も被害者もいないのだということ。その両方の側面を抱え、過去を認め、この先も矛盾の中を生き続けなければならないのだということ。そう簡単に一貫できないこと。むりに辻褄を合わせようとすると精神が死んでしまうこと。そんな形で神様になっても、命を絶っても、報われないなと痛感する。

 

そういえば、私はアダルトビデオをほとんど見たことがない。最初から最後まで見通したことは一度もない。生身の人間が出てくるので、現実と混合し、怖かったのだ。なので二次元のものでいつも性欲を処理していた。しかし、最近元AV女優が「別に罪悪感とかいらない。あれは仕事だからやってるだけだし、楽しんで見てよ」と声をあげているのを見かけるようになり、抵抗感が軽減した。「ファンタジーはファンタジー。男に都合よすぎるセックスに女は萎えているんだよ。現実ではありえねーからな!」と、出演している役者がただしく夢を壊してくれる。だからこそ楽しめるポルノがあると思う。

痴漢被害者だけれど、私は痴漢物の漫画を読んでいることがある。児童人権擁護の主張をしながら、子どもと大人が性交する漫画を読んでいることがある(二次元に限るけれど)。性病検査に行き避妊を徹底しているが、作品の中のゴムなし中出し描写に嫌悪感は覚えない。そんな自分を責めてしまい、殺したくなった時期もあったのだけど、今は特別悪くはないんじゃないかと思えている。コミュニケ―ションであろうとなかろうと、身体接触に、暴力性が伴うことを受け入れられている。他者に欲望し(され)、互いの身体を侵害し得るという側面を0にはできない。性欲処理や承認欲求充足のために利用してしまう部分がある。男女で身体的リスクの差もある。妊娠が女体側であるために、生殖機能のある異性間の性行為は不平等な関係のもとにある。それを認めた上で、なるべく公平に安全に楽しめる道を探したいと思う。大事なのは、現実で、自分と同じように相手にも尊厳があることを学び、自分の解釈に溺れずに他者の訴えに耳を傾けること、ただしい性知識を内面化させ、選択肢を探し、自己決定することではないかしら。内心どんな欲望を持っていようと。

仮に、現実で、性犯罪加害をしてしまった人がいたら、誰かに相談してほしいと思う。一緒に合理的な解決策を探したい。また、私が今まで関係した人の中で、私に性的に嫌な思いをさせられたことがある場合は、私を批判し、必ず誰かに愚痴ってほしいと思う。プライバシーへの配慮を気にしすぎると、性的接触の語りは憚れるが、性に関する悩みや行為への不快感は匿名性を利用して、どんどん外に出すべきだ。傷つけ傷つきながら、もがきながら、誰にも自分の身体を奪われずに、心を強制されずに、生きていけるといい。生きていきまっしょい。

 

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 先日『江古田ちゃん』の最終巻を読んだ。「相手にいくら欲情されようと、私の身体は私だけのものなんだ」というセリフにやられた。それに尽きると思う。自分の身体を取り戻せたらレインボーうれぴっぷるですよ。終わり。