1週間限定シェアメイトを募集しています。(10月末で終了となりました)

 

最近こんな宣伝チラシを作ってみました。

 

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 ということで、早速、今週火曜日から素敵な知人Aさんと1週間同居人をしています。(NOW)

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 こんな感じで過ごしてもらってます(^ω^)

 

さて、この企画のメリットは何か。

 私個人としては、

・複数分料理したほうが食費が浮く

・料理が苦手なので修業に付き合ってほしい

・6畳空いていてもったいないので有効活用したい

・月のネット料金(多すぎ)をシェアしたい

・他人がいたほうが自堕落にならずにメリハリがつく

・防犯的な意味で心が落ち着く

     ・・・という自分本位な理由があります。

 

ほかにも、

・気軽に面白い経験ができる(たぶん)

・生活を通してお互いに意外な発見ができる(たぶん)

・ストレスの少ない生活を一緒に試行錯誤できる(たぶん)

・自分の持っていた常識(偏見)に気付ける(たぶん)

などが、挙げられます。

また、東京観光に来た人には安いゲストハウス的な感覚で使ってもらうことも可能です。家が複数欲しい時にも使えます。家出にもお役立ちです。なにかと便利です。

「お互いメリットを見つけあって、穏やかに利用し合えたら良いんだよ」という言葉をもらったのですが、本当それだなあ、という感じ。

 

前置きはここらへんにして・・・

少しでも興味を持ってくれた方・・・ 

 

詳細はこちら。

 

○募集期間

  平成26年9月~12月までの4ヶ月間

○募集人数

  月に1名×2回。(例外として、同時2名入居も可能かもしれない。)

○募集条件

  ①0時までに眠ってくれる方(夜間活動しない方)。

       ②家事を助け合える方(苦手分野があっても大丈夫)。

       ③合意形成・非暴力な関係に理解のある方。

 

面識あってもなくても一度顔合わせる日を設けます。

年齢・職の有無・性別・セクシュアリティは問いません。

「男女が同じ部屋にいて何も起こらないはずがないw」という人とは価値観が合いません。紛争になるかもしれません。

1泊して(2日住んでみて)合わなければキャンセル可能で家賃も不要。

ということで、家賃支払いは2日目以降です。

稀に、希望いただいてもお断りする場合もございます。

 

○家賃・水光熱費・食費、生活について

  家賃・水光熱はチラシの通り。食費は応相談で。

  自転車1台無料で貸せます。(紛失しなければ)

  ネットは使い放題です。

  煙草も吸い放題です。(私は喫煙者ではないけど)

  ニート大歓迎です。(夕方、洗濯物入れて頂きたい)

 

 では!ご応募お待ちしております。

 

 ※再同棲決定のため、10月末に利用する方で応募は終了とさせていただきます。急遽終了となってしまい申し訳ありません。

独占しない関係について

何年か前、当時の恋人にむかって、封の開いたコンドームの箱を眺めながら「他の子とセックスするときに残りのやつ使いなよー」と何気なく言ったら、ものすごく嫌な顔をされて喧嘩になったことがある。

 

ずっと、恋愛関係と呼ばれるような他者との親密な契約関係を作るのが苦手だった。それは、少し一般論からずれている自分の感覚を言語化して目の前の相手に伝える努力を怠っていたためである。「わかってもらえない(そしてむしろ煙たがられる)」恐怖に怯え、自分の感覚を隠してきた。だから、16歳以降、まともに人間とお付き合いできたことはなかった。

 

私は「独占欲がもたらす苦しさ」の人生の優先度を低く設定している。そのため独占欲が結構薄い(ということになっている)。そうすると、同時期に複数の人間と恋愛・性愛関係に至る可能性を持つポリアモリーやオープンリレーションシップという概念に親和性を持ってくる。

 

【ポリアモリー(polyamory)】

 ウィキペディアから引用すると、つきあう相手、親密な関係を同時期に、一人だけに限定しない可能性に開かれていて、全ての関係者が全ての状況を知る選択が可能であり、全員がすべての関係に合意している、という考え方に基づく行為、ライフスタイル、または恋愛関係のことである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%83%BC

 

【オープン・リレーションシップ(open relationship)】

それに対して、オープン・リレーションシップは、恋人同士がお互いに他の人と関係を持つ事を認めている関係。いわゆる「浮気」や「二股」との違いは、お互いに同意の上で他の人と関係を持っている部分である。その関係が婚姻関係を含む場合もあって、それをオープン・マリッジ(open marriage)という。

ポリアモリーと混同されやすいが、厳密には違うものらしい。例えば、オープンリレーションシップが風俗通いやワンナイトラブをOKとする「継続的でない割り切りの関係」「体だけ」であるのに対し、ポリアモリーは同時に複数間での「恋愛または性的感情」「付き合う」を始めから想定していて、「みんな仲良し」という感じ。

 

 

ポリアモリ―的な実践を目指して、「一度に複数と付き合います」と了承を得たうえで、一度に2人の恋人を持ったこともある。今(この記事を書いている現在)は、パートナー(恋人)は1人がよいが、その相手が私以外とセックスをしても、特に不快感は持たないので「セックスパートナーを恋人に限定しない」関係(オープンリレーションシップ的な在り方)が一番しっくりくるし、自分が穏やかな状態でいられるという結論に至った。

 

しかし、「誰とでもセックスすること」を無条件に肯定しているのではない。「セックスパートナーを恋人に限定しない」関係が気持ちよく成り立つためには、最低限、以下の条件が必要であると思う。

条件① 性感染症・妊娠のリスク回避ができているか。(リスクが生じた際、相手が誰だかわからない状態は大きなトラブルを生むだろうし、無責任な接触は結局誰のことも大切に扱うことができない)

条件② 自分の寂しさを他者で穴埋めさせる消費的な接触、相手の心身をまったく思いやれない暴力的な接触、行為中・事後、不快感やトラブルが伴う後味の悪い接触ではないか。

 

次に、「独占的な関係でなくていい」と恋人契約をしても、実際一緒に居続けていけば、予想外の展開に陥ることは結構ある。思いもよらぬ嫉妬感情の発生などがそれにあたる。そのとき、片方が不満に感じた部分を伝え、納得するまで話し合うか、契約内容を修正していく(たとえば限定的な性交渉にルール変更する等)といった努力の積み重ねから逃げてはいけないのだ。

コミュニケーションに相当な困難を要していた自分がようやく気付いたのは“相手を尊重する”とは、自分が傷つかないことを第一に優先する、自分の在り方を押し付けるのとは反対の行為であったということだった。

 

「恋愛関係(付き合うという契約)」を疑いつつも、とても大切なものだと考えている。独占欲は極めて薄いが、相手の存在に執着していることに気付いたとき「名づけ」を必要とし、関係に名前が付くことでさらに執着してゆくというパワフルで衝動的な幻想的な試みをどうしても好んでしまう。

 

私は、恋人にしかり、大切だと思う人には豊かな経験をたくさんしてほしい。世界は絶望的に広く、掬いきれない景色であふれている。「相手の幸福のすべて=自分との関わり合い」では決してないはずだ。自分が贈ることのできない類の豊かさがあり、私以外の人がもたらす幸福も、それらの人と相互的に作る幸福もあるはずだし、私の親しみのない分野(趣味や学び等)と出会い、幸福を感じることもあるだろう。もちろん恋人という当事者間で作っていく幸福や時間共有の面白さがあることは言うまでもないが。

 

その考えの延長線上に、「セックスパートナーが“私”に独占されないこと」がある。自分以外の人とセックスすることでその人の世界がもっと豊かになるのなら、それはそれでハッピーなことだと思っている。愛するひとの世界が狭まるのでなく、広がってあるいは深まって鮮やかになることがうれしい。それを近くで眺めているとき、終わりのない本を読んでいるような、わくわくと旅をしているような、不思議な気分になる。

「恋愛関係(付き合うという契約)」の面白さは、その楽しかった継続的な時間が、少年誌で起こる突然の連載終了、みたいに不安定である部分にあると思う。かならず想像外の別れがあり、永遠を願った夢は打ち砕かれ、「恋人」の名前を喪った後に、何者でもなくなった個人だけがぽつんと取り残される。

 

 

しかしこれだけ熱く語ったが、自分が心身疲れて余裕のない時に、恋人が自分を置き去りにして他人とイチャイチャしていたら、「嫉妬」「ショック」とかではなく「ああ、だるいな…」と勢いあまって別れを切り出してしまうことを想像できるくらいには私はそんなに寛容でもないのだった。

18歳の時、バイト先でクールビューティーなお姉さんが語ってくれた「あー。彼氏と同棲してたけど浮気されて別れたんだよね。でも相手金がないから家出ていけなくてさー、同居人として今でも一緒に住んでいるんだわ」という話が面白くて、今でもよく思い出してしまう。

 

 

 

*補足として

この文章でいう『恋愛関係』とは、付き合うという契約を伴うものとした。加えて、『セックス』とは、異性間あるいは同性間・Xジェンダー間等の、性欲の共有を伴う性的接触(性器の接触や挿入に限定されず、性的なニュアンスのキスやペッティングも含む。) を指した。しかし、共有感のない、片方が性欲を一方的に満たそうとする行為はセックスではなく「性暴力」になりうると私は考える。金銭等でサービス提供をする同意が取れる場合には「性労働セックスワーク)」として成り立つ。とにかく、『豊かさ(自由)』とは対極にある、NOの言いづらい、義務感や強制力が楽しさを上回る「仕方なくする」セックスは心身を消耗させるから、そんなのやらんでいいのです。(大声)

 

本文には特に記してはいないが、性的接触を要さずに成り立つパートナー関係もある。あくまで、目の前の人間が、どういう「恋愛観」「性愛観」「パートナー観」「浮気の捉え方」「独占欲の強度」「セックスの必要度」を持っているかは様々であり、その都度、オリジナルでスペシャルな関係が出来上がるわけで、そうだな、非常にめんどくさいな。

「フランシス子へ」を読んだ

忘れがたいっていうのは、つまり好きってことなんでしょうね。-吉本隆明

 

 

フランシス子へ

フランシス子へ

 

 

 

 今日、誕生日おめでとう、と書かれた手紙が自宅に届いた。もう十年の付き合いになる彼女から、十年間の思い出が写真つきで語られていた。「一緒にいておもしろかった記憶を思い出せる」と書いてあったが、私はつらかった記憶しか思い出せない。なにより、お互いに、どんなことを会話したのかは覚えていない。まったく相手のことを理解していなかったために、大きな愛の物語だったと記憶している。

 

「フランシス子へ」も、愛するものへの手紙である。吉本隆明が亡き愛猫フランシス子に宛てた手紙である。

「僕にとって特別な猫であることはまちがいないんだけれども、どんなふうに特別であったかを言葉にしようとすると、これといって特別なところはなんにもなかった。でも自分の執着のしかたを見ていると、やっぱりなにかあるんですよ、きっとね。でもその何かっていうのを言葉で言うのが難しいんです」と彼が告げるように、愛猫・フランシス子は「わからない猫」であった。愛するものの価値や理由の中身を語れば語るほど、「愛している」が離れていくのがわかる。なので、「愛している」は沈黙の中でしか持続もしないし育たないのだけれど、「どれほどか」が一切語られないので誰にもよくわからない。別れるときだけが、言葉を生む。分娩台に横たわる母親の肉体からひょこっと出てこようとする胎児のように、別れた後にはずっと黙っていた言葉が内側から流れてくる。心と身体の狭間の何か、断定できない何かをどうにかして外に出そうとする動きに心打たれるが、そのときも私たちは、喪失は言葉では埋まらないこと、不可能であることを知っている。

 

 

 

死者との添い寝

眠れる美女 (新潮文庫)

眠れる美女 (新潮文庫)

 

 

  別れの一つ、対象の死。川端康成の小説「眠れる美女」では死んだように眠る裸の少女と添い寝する男が登場するが、彼女からの応答はない。ピーター・グリーナウェイの映画「コックと泥棒、その妻と愛人」でも逃走に疲れた女は愛する男の死体と一晩添い寝するが、彼からの応答はない。それは共に居ると言えるだろうか。非臨在の永遠が約束されている。もう二度と、失うことができない存在になる。既に眠ってしまっている者に語りかける言葉は、追悼文であると思う。今年四月のわたしはこんなことを呟いていた。

「睡眠は不在と同義である。愛しさは、取り残された僕が不在であるあなたに囁く『おやすみ』でしかあらわせない」

あなたを愛している、という告白は、あなたがいなくなった後にしか、言えないのだ。失った後しかあなたへの私の思いを私は知ることができない。

 

 

センチメンタルな旅・冬の旅

センチメンタルな旅・冬の旅

 

愛する者が死んだことがない。愛せなかった者に対する追悼文しか書いたことがない。なので、愛する人が死んだとき、手紙を書けるかはまだわからない。今年、宇多田ヒカルの亡き母に対する追悼文を読んだ。去年は荒木経惟の「センチメンタルな旅・冬の旅」(妻が他界するまでの数か月間の写真集)を読んだ。(この時写真が別れの言葉を代理することもあるのだと知った)

これらの手紙はすべて私たち第三者への公開文となっていることに驚く。一番届けたい人には届かないので代わりにわたしたちが受け取らないといけないのかもしれない。外に出すことは何を産みますか。わからない。

 

 

 

 

簡単に「悲しい」とか「さびしい」とか言葉にできないっていうのは「いや、本当にそうか」と疑ってしまうからだ。

 

 簡単に言えることなんて、そうありはしない。と吉本氏は言う。彼は「悲しい」「さびしい」という言葉がいつも出遅れてしまうのだと言う。本当は確かめようがないことを疑いもせず言い切ってしまったら、いわく言い難い中間がバッサリ省かれてしまうと言う。そんな「実在性」についてが、書かれている。生きるということは、どっちとも言えない中間を断定できないまま、ずっと抱えていくことじゃないか。性急な答えを求める風潮は、どこか嘘っぽいのだ。ほんとうのものは断定できない、矛盾したもの形のないものの中にあるんじゃ、ないか。

 

東京の街、鮮やかな欲が途絶えることなく並び続ける風景、仲の良い(と思っている)友人の前で「たのしい!」「ハッピー!」と、笑顔ではしゃぐ自分の姿は大袈裟でどこか嘘っぽい。確かに、快適で、快楽なのだ。しかし、永遠を約束しないので、どこか薄っぺらいのだ。すぐに消えてしまうものだから、と諦めている。それなのに、くるしみ、かなしみ、さみしさ、と呼んでいいかよくわからないそれと隣り合わせになるとき、何も語れなくなる。何も出てこない。体内で胎児を流産してしまって、何人もの死体が肉のなかを揺れている。どうしても私から別れられない命たち。諦められずに、涙が代弁してくれることもあるので、どんなに身体が壊れていっても涙だけは枯れないでほしい。そんな「私と別れられない私」さえもやさしく包みこんでくれるような一冊であった。