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物語を完成させる - 添い寝原体験

今から一つの物語を完結させる。この物語は語らずにいたかった。語ってしまえば離れていってしまうからだ。言葉にすることで、語られる対象は殺されてしまうからだ。私の身体の中から、いなくなってしまう。しかし、それでも残ったものもある。言葉にならない・言葉では足りない・言葉では伝わらない感覚、確かに在ったのだと、全細胞が覚えている。冬になると、かならず蘇ってくる。あなたはもういないのだが、それを欠如だとは思えない。喪失の歓び。もとから、関係に名前はなかったし、果たされるべき未来を約束もしたこともなかった。互いのことなんて理解不能な猫たちが、ただふらっと寄り添って、ふらっと去っていく、ただそれだけだった。

 

 

 

「添い寝フレンドと呼んでいたあの人について」

 

いつからかはわからないほど昔から、性的なものが嫌いだった。もちろん「セックス」という単語を耳にすれば、不快感しか生じなかった。興奮の対象となるからだを巧みに誘導して、自分の欲を満たす行為だと、性的処理の道具として消費するなんて汚らわしい、ましてや妊娠や性病のリスクもあるのにそれは二の次で、快楽に溺れている、馬鹿じゃないの、気持ち悪いと。そうやってひとり足のつかない水中で溺れるようにもがき疲れていた。中学生になる頃には、性的な記号を受信するたび勃起するからだがあり、豊満な美味しそうな肉となるからだがあり、経血が我が物顔で生活に入り浸ってくる。何者でもなかった「ぼく・わたし」の身体は変化し、男か女かに分類され、「恋愛」というわかりやすい構造の中に回収されて、そこには必ず「性的なもの」がついてくる。その先には結婚というお決まりのコース、社会的な自己という安住。誰だっていい、代替可能のくせして「君しかいない、永遠に愛している」と妄想めいた形を発し、妥協の選択をして「性愛」「恋愛」に興じる意味が分からなかった。だから「性愛」も「恋愛」も大嫌いだった。

 

 

眠るとは死の予行練習ではないだろうか

 

こんな一節がある。

さみしさの周波数 (角川スニーカー文庫)

さみしさの周波数 (角川スニーカー文庫)

 

 

―孤独を感じて前後不覚になるようなおそろしい「ひとりっきり」を知るたび、まるで自分にはそれだけしか残されていない唯一の存在のように彼女がこの世界のどこか、同じ空の下に存在して、同じ時間を生きているのだということを考える。

彼女に対してあるのは恋心ではないと思う。もしそういう感情であれば、悩んだあげくにきっと告白していた。彼女の存在がいつのまにか自分の中で重要になったのは、もっと切実で緊密で単純な何かがあったからだ。何かというのをうまく説明はできないが、例えば傷ついてつかれきった魂がそっと寄りかかるような存在のことに違いない。

 

 

…“わたしたちは、「根源的に、寂しい」”…

 

永遠に全てをわかりあえないもの、目の前のあなたが別々のからだを持つ「自分ではないもの」であることを知っている。同時に、わたしは独りなのだということを知る。静寂の夜、ひとりで布団に包まれるとき、自分が自分であることから逃れられない。眠りに至る布団の中はもう一つの世界である。生と死の境界である。眠るとは死のうとすることとどこか似ている。

 

既存のものを全部置き去りにして、私とあなたは0として別れてそして始まる。1にも2にもならない。ただ、「あなたが存在している」という事実だけが、彼らを満たしたのだと思う。海がなにも理由を聞かないままでさみしさを抱きしめてくれるみたいに。

 

 

添い寝の日々

それでも、こんなの小説の世界の話だ。空想だ。理想だ。成りえないから、憧れるのだ。諦めた、でも諦めきれずにいた、二年前の夜の夏。

「帰り道、アイス食べて帰ろうか」とバイト仲間のKさんが言った。Kさんは、私の目からは男性にみえる生き物で、歩く速度と沈黙の速度が似ていた。

そして数日後の昼下がり、ひとつの漫画を差し出された。

放浪息子1 (ビームコミックス)

放浪息子1 (ビームコミックス)

 

 

「これ、好きなんだよね」と『放浪息子』を眺めて彼はつぶやく。「どういう話?」と尋ねると、透明な声で「男の子が女の子の格好する話だよ」と答えた。続けて、「おれは、男とか女とかいやでさ、中性的でいたいんだよ、性的なことも正直よくわからなくて、男友達のエロトークについていけなくて、いつも苦笑いになる、性的にじゃなくただ人に触れたい、けど、相手が女でも男でも恋愛の流れになってしまうし、あんまりうまくいかないんだ」と言った。

そこからだ。もしかしたら、この人と私は近い世界の住民なのかもしれない、だれもいないはずの孤独の星で自分と同じ生命体を発見したかのような興奮、冬のかさついた空気の粒一つ一つに体内の水分を含ませる、滑らかになっていく、潤っていく、世界が急速に色づいていく!私はこの人に出会いたかったのだ。「もうこんな人には出会えない」と言い合うけれど、「好きだよ」という言葉は一度も出たことがなかった。ふしぎなこともあるもので、決まっていたかのように、ほぼ毎日、疲れた足で立ち寄って、寄り添って、添って眠る日々が始まった。そこに、性のにおいはなく、「この人とはセックスも性別もないんだろう」という確信だけがあった。まるで、性分化する前のこども同士が浅いプールでじゃれ合うような、平和なあたたかい水の中。朝起きると、涙が出てくることもあった。ひとりの朝はいつも生きている心地がしない。生活らしきことを始めているのに、本当に目覚めているかわからなかった。自分しかいない空間には、自分の存在を認識してくれる誰かはいない。他者の存在がある朝は、私の存在も確かにあった。「存在しているだけでいいよ」と全空間に抱かれているような気がした。添い寝は、無条件の存在肯定をもたらす。目的も、頂点もない、沸騰もしない。ただ、在りさえすればいい。性別、年齢、出自、家族構成、容姿、職業、パーソナリティ、過去、今、未来、様々な要素は意識の外に出て行った。眼を瞑る。あなたの体温をつかみ、生命の鼓動に耳を澄ませる。同じテンポで踊る。――――― 融合する。

 

 

 

「私が他者の手を握ることによって、その人がそこにいるという明証をもつのは、それはその人の手が私の左手と入れ代わるからであり、私の身体が逆説的にも自らがその座となっている「一種の反省」のうちに他者の身体を併合するからである。私の二つの手が「共存」するのはそれらがただ一つの身体の手であるからである。他人はこの共現前の延長によって現れていくのであり、他人と私はただ一つの間身体性の器官なのである」

 Maurice Merleau-Ponty

 

 

 

 名付けも、継続の約束も不要だからこそ、成り立っていた。いつ終わるかわからない、だからよかった。どんな関係も必ず別れがある。突然それはやってくる。その事実にひたすらに誠実だった。いつのまにか共に秋を終え、共に春が始まる。するすると時が過ぎていく最中、私たちの関係は終わっていた。一緒にいる時間が増えるたび「好きだ」「付き合おう」「ずっと一緒にいたいね」という言葉が密かに芽生え始めてしまったからだ。そうすると、添いて寝るとき、違和感が生じた。存在以外のものを求め始めてしまっていたからだ。ちょうどその頃、生活環境が変わり、新生活も慌ただしくなり、距離を置くことになった。「もう戻れないのだ」そうやって、沈黙がまっすぐ背中を押した。

 

時は経過する。その間に恋人ができ、嫌悪感の生じないセックスができるようになっていた。数か月後、久々にKさんと会うことになる。相性の良さは変わらず、以前のように近所のクロワッサンの美味しいカフェで煙草を吸って、部屋のお香に癒されて、新宿に遊びに行けるのだった。ただ、もう添い寝はできなくなった。あの頃の感触は一切なくなった。ただしく、終わったのだ。あの時と同じ感覚を求めた日もあったが、その時のあなたはもういない。毎日、変化していくのだ。今日、昨日のあなたとは違うあなたに出会い、はじめまして、そうやって何度もくりかえす。ただ、あの日のあなたを喪っても「あの瞬間の感覚」を覚えている。はじめて、自分が生きている実感を持ち何者でもない個として存在する歓びを知ったあの感覚は、かならず必要であった。しかし、今ここで、その美しさに別れを告げる。言葉にしてしまうことは対象への侮辱である気がして、まったく足りなくて、いつまでも動けないでいる。

 

 

それでも、語れることと語れないことの中間のものを私はあきらめない。これからも伝え続けるから、わからないでください。