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恋愛やめて生殖やめてボクシング始めたら超健康になった

就職して2年目で5回も引っ越した。同棲してた男の子にフラれて途方に暮れていたのをきっかけにボクシングジムに通うようになった。野方にあるそのジムは稽古の後、駄菓子を5つ選んで持って帰るという掟があり、駄菓子屋を兼ねていた。「お疲れ様っしたー」と、駄菓子の存在を忘れそうになっても、体格のいいコーチが「あ、お菓子、持って帰ってね!」と必ず忠告するのだった。ベビースターラーメン(うま塩味)とチロルチョコを毎回選んだ(ちなみにチロルチョコは2つで1カウントだった)。「駄菓子ングジム」だった。人生どん底かなぴっぷるな状態だったので、ひたすら無心で真っ赤なサンドバッグに拳を撃ちつけた。ちょうどその頃、安藤サクラ主演の映画を観た。自堕落な生活をしている冴えないアラサ―女が出会いと失恋と性暴力被害を機に、ボクシングに打ち込み自分を取り戻すという復活劇であった。リングの上で、対戦相手にボコボコにされて血だらけで、それでも這いつくばる安藤サクラを見ていたら、なんだが他人事に思えなかった。

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『百円の恋』

 

19歳の時に性暴力被害(追記:2017年に法改正有。当時の暴力は強制性交等罪に該当)に遭った。私たちが生きるこの社会では、肉体の所有者本人の意志を無視あるいは軽視して性的コンテンツとして扱うこと(境界線を侵害すること)が容認されている、としばしば思う。どんな容姿だろうと服装だろうと時間帯だろうとセクシュアリティだろうと年齢だろうと無関係に性犯罪に遭うリスクはある(マイノリティな属性を持っているほどその危険性は増すと言われている)。正直言って、自己防衛しきれない。特に力関係が不均等な相手から不意打ちをくらえば、抵抗しても勝てるわけがない。抵抗する気概さえ奪われて諦めるしかない場合だってある。襲ってくる相手は、見知らぬ相手とは限らない*1。信頼していたはずの人を信頼できなくなる瞬間、耐えがたい苦痛を浴びせられ、それを防げなかった自分自身を責めたくもなる。極端に思えるような言い方だけど、恋人間であろうと、相手が目の前で全裸だろうと勝手に触ってはいけない。でも、それってあんまり周知されていない。

 

”他人が全裸姿で目の前にいても、その身体の持ち主の許可なしに勝手に触ってはいけないんだけど、この世で女体持ちが肌を露出しているだけで「OKのサインだ」と一方的に解釈しお触りする輩がいて「不快」と伝えても「自己責任だ」とセカンドレイプが予測される為、涙もおっぱいもポロリだよ”

 

そんなポロリだらけの社会で、23年生きてみて、生殖機能があると、厄介だなーという感情ばかりが募っていた。コンドームは男側主体の避妊かつ失敗する確率が割とあるし、自分を守るための緊急避妊ピルも市販化されていないし、常用ピルだって海外と比べればハードルが高い(どちらのピルも産婦人科に行かないと処方されないし、値段も高い※2015年現在)。どうにかならんのかと色々調べた結果、覚悟して子宮内に避妊具を入れることにした。

 

kmnymgknunh.hatenablog.com

 

装着して半年以上経ったが、毎日が快適になった。経血量も激減したし、なにより自分の身体を自分で管理できているという感覚が強い。

卒論作成時にみかけた、リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(産むか産まないかは国や第三者に強要されることなく、各自が選べる。そのための情報や手段、支援を得る機会を持ち、選択できる)」って、この事だったのか!と納得ができた気がした。同時に、自分が女の身体に産まれたことは何も悪いことじゃなかったのだなと、全身で理解したのだった。「社会的な立場の弱さと、個人としてのそれは別物だ」という言葉がすとんと身に染みた。私は自分の手で人生を選択できるという自信がみなぎった。目の前にある事実をただ受け入れ、愛せるようになってきているから不思議だ。

 

昔から、ブラジャーがどうしようもなく好きだ。ワコールにはいつもお世話になっている。引っ越し貧乏になってもブラジャーだけは定期的に購入している。最近はやっとスポーツブラからブラジャー用洗剤まで一通り揃えた。他人に見せるためではなく、自分だけで楽しむことに重きを置いている。より一層、自分の身体を愛でられる。就職してよかったと思うのはブラジャーに奮発できる点である。本当にこれに尽きる。美しい下着が、自分の肉体を肯定する道具となっている。

先週、尊敬しているお姉さんから、たくさんの下着が新居に届いた。「配偶者の有無関係なしに、幸せになってください」「つらいときは逃げること。命や健康が大切よ。」というメッセージに、涙が止まらなくなった。

 

そうなのです、結婚することにした(既に事実婚状態なので、現在進行形で結婚していると言って良いかもしれない)。

生い立ちとして、私の両親は完全分業家庭を選び大変効率は良かったんだけど、父が本当に頼りなく繊細なサブカルバンドマンみたいな感じだったので、母はパワフルウーマンにならざるを得なかった。それを教訓にして、自分の人生を他人任せにしない、生活力のある自立した人と共同生活が出来たらという願望があった。(冒頭にもあるように)私は恋愛が向いていないので、恋愛は捨てようと思った。そこで、知人に「利害を一致させて、結婚してくれませんか?」と申し出たら「面白そうだし、いいよ。」と返ってきた。そうして、そういうことになった。今年中に行政書士に相談し、「結婚契約書」を作成し、公証役場に提出できたらいいなと思っている。既存の法律(特に性的自由を制限する不貞行為の欄など)には、納得がいかないので、できる限り法律に縛られず、両者の合意に沿った夫婦関係を目指したい。

 

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(お姉さん、本当にありがとう。私も貴女の幸せを心から祈っています。
(ブログにてお返事となってしまい申し訳ありません。下着、大事にします。

 

 

引っ越すたびに、美味しいクリームパンとつけ麺と花屋さんを探す癖がついた。越した後は、機会がない限り、前の街に寄るのが億劫になるため、例えば、歯医者を前住んでいた所から変えない等して、強制的に機会を設けるようにしている。上京して、もう6年になる。思い出深い場所がたくさんできた。面白い人たちとも巡り会えた。そうして今日で24歳になった。まず、私は性格が悪くて乱暴な生き物だから、自己防御力があって、同じくらい戦闘力がある人と付き合っていこうと思う。本当にしょうもない奴ですが、仲良くしてくださる方、毎度ありがとう。そして今後ともよろしくお願いします。近所に美味しいパフェのお店があるので、ご案内します。人生レインボーうれぴっぷる。終しまい。

 

※2020年9月一部加筆修正

*1:強姦被害の7割以上は親族や恋人含む知人による加害だというデータもある

無題

20歳の頃、アダルトビデオを人生で一度も見たことがないという男の人と親しくなった。彼は自分が痴漢に遭った話を静かに語ってくれた。自分の性自認がよくわからないようなことも言っていた。おれ、女々しいらしい、とよく笑った。恋人とのコミュニケーションとしての性接触に限定すれば賛成だが、それ以外はどうしても受け付けられないようだった。ハグは好きだが、性器接触も興味がないと言っていた。

19歳の冬にバイト先の店長から性暴力に遭い、必死で逃げ帰った後、身体に付着した精液をシャワーで一生懸命流した。20歳の冬には最寄駅のエスカレータで同じ歳くらいの男性にスカートの中を盗撮された。どちらも被害届の甲斐なしで犯人には逃げられてしまった。涙をぬぐって、マフラーを巻き直して警察署を出た。ひとりに耐え切れず、その彼に電話をかけた。私が理由を語れずとも、いつもの寝巻姿で招き入れてくれた。一緒に大根を切って、グツグツと煮たけれど、さほど栄養バランスの良いとはいえない鍋だった記憶がある。そのまま添い寝して、朝が来て、彼の腕の中でわんわん泣いた。よくよく思い出すと、自分は小学生の頃から性被害に何度も遭っていた。でも、家庭内で性的な話題は存在していなかったに等しかった。だから、痴漢に遭ったことを親に言っていいかわからなかった。10年経たった今、それは決して恥じることでもなく、自分が傷ついたという事実を語ってよいと学んでからは、私は声を持った。すると、ネット上でたくさんの実体験が寄せられるようになった。静かに語られる事実は、重々しい。あまりに重すぎて、目を背けたくなるものばかりだ。ピア・カウンセリングのようなもので、女性に限らず、男性からも、性自認が定まらない方からも、トランスジェンダーの方からも、被害届そして加害届(!)が寄せられた。どんなに傷ついたとしても、人は生き続けることで他者の人生と交差する瞬間に巡りあえる。奇妙な距離感だからこそ、語ることのできる受傷や罪悪感もあるのだと、再確認させられた。

人から性的に欲情されることが不快感として内面化されていて「他者を性的対象にすることは悪いことだ」と、親しい人との行為でもどこか冷静さと罪悪感がぬぐえなかった。そんな風にこじらせていたせいか、「罪悪感で、女性と性的関係が築けない」「女性を性的に傷つけてきたのではないか」と加害者意識に悩む男性陣も一定数集まることがあった。とても臆病な人達だと思った。もう対話のできない過去を巡って、当時の相手の感情や傷つきを推測して己の加害者性に思いを馳せているという印象だった。過去は戻せないので、今度こそ、また誰かと、対話する勇気を持ってほしいとも思った。

ずっと押し殺してきた、自分の感情を露わにし、声にならない声を上げ、やっと自分の言葉を並べられた時、人は何かから解放される。知らずのうちに、涙があふれる。それは、生々しい言葉を受け止めてくれる他者が居てくれなければ成り立たない過程である。聞き手の存在に、心が絞られていく気がする。沈みきった苦い液体がただしく濾過されていくような、不思議な感覚である。

性暴力被害後、男性嫌悪が加速して、親しい男性に向かって「去勢してほしい」などと言っていた。2年後、再会し「あの言葉は僕の男性性を真っ向から否定するもので、大変傷ついた」と言われた。何度も謝罪したが、彼の心がそれで癒えるわけはない。それでもなんとなく友人として時々会える関係性に落ち着いたことを大変ありがたいと思っている。性暴力に遭い続け、被害者性に囚われてしまうと、加害行為をした「個人」を超えて男性そのものを否定したくなってしまいがちだ。今それを、歪んだ感情(とばっちりに近い暴力)だと理解している。でも、仕方ないくらいに、行き場のない傷でもあると思う。彼とはこんな懐かしい夜もあった。水道橋の飲み屋街で喧嘩になり「性暴力に遭ったことで思考が歪んでるんじゃないの」と言われた時に「私の痛みをなんでわかってくれないんだ!!!」と泣いてしまった。生まれて初めて人に怒りをぶつけた子どものような自分自身に衝撃を受けた。ただそこで、決して他人事ではなく、寄り添うわけでも理解者になるわけでもなく、目線を合わせ、ただ自分の意見を述べてくれた、その無頓着とも取れる言葉によって、気遣いのない言葉によって、私は言葉を取り戻し、自分の感情の深さを知れたのだ。

コミュニケーションを望みあった親密関係の中で、片側から「あなたのせいで傷ついた」と一方的に責められて、罪悪感に悩まされる経験をした人は多いと思う。自分がしてしまったことに酔わずに、具体的に言語化できたのなら、あなたはもう大丈夫だよと言いたい。そもそも、親しい間柄における性暴力(性器挿入に限らない)に関しては誰もが被害者・加害者になる側面がある。多くがグレーゾーンであり、エスカレートする前にいかに内省したり対話できるかが鍵だと感じる。加害・被害性両方の側面を抱え、過去を認め、この先も矛盾の中を生き続けなければならないのだということ。そう簡単に一貫できないこと。むりに辻褄を合わせようとすると精神が死んでしまうこと。そんな形で誰かにとっての偶像になっても、自分の首を絞めても、報われないなと痛感する。

 

話は変わるが、私はアダルトビデオをほとんど見たことがない。最初から最後まで見通したことは一度もない。生身の人間が出てくるので、現実と混合し、怖かったのだ。なので二次元のものでいつも性欲を処理していた。しかし、最近元AV女優が「別に罪悪感とかいらない。あれは仕事だからやってるだけだし、楽しんで見てよ」と声をあげているのを見かけるようになり、抵抗感が軽減した。「ファンタジーはファンタジー。男に都合よすぎるセックスに女は萎えているんだよ。現実ではありえねーからな!」と、出演している役者がただしく夢を壊してくれる。だからこそ楽しめるポルノがあると思う。

痴漢被害者だけれど、私は痴漢物の漫画を読んでいることがある。人権といいながら、児童ポルノに引っかかるような漫画を読んでいることがある(二次元に限る)。性病検査に行き避妊を徹底しているが、創作物の中の中出し描写に嫌悪感は覚えない。そんな自分を責めて、殺したくなった時期もあったのだけど、今は特別悪くはないんじゃないかと思えている。大切なのはファンタジーと現実と区別しながら自分と他人の性を尊重できるかだ。コミュニケーションの一環としての身体接触にも、当然暴力性が伴うことを今は受け入れられている。他者に欲望し(され)、互いの身体を侵害し得るという側面を0にはできない。性欲処理や承認欲求充足のために利用してしまう部分がある。男女で身体的リスクの差もある。妊娠が女体側であるために、生殖機能のある異性間の性行為は不平等な関係のもとにある。それを認めた上で、なるべく公平に安全に楽しめる道を探したいと思う。大事なのは、現実で、自分と同じように相手にも尊厳があることを学び、自分の解釈に溺れずに他者の訴えに耳を傾けること、ただしい性知識を更新させ、選択肢を探し、自己決定することではないかしら。どんな欲望を持っていようと。

仮に、現実で、性犯罪加害をしてしまった人がいたら、誰かに相談してほしいと思う。一緒に解決策を探せるかもしれない。また、私が今まで関係した人の中で、私に性的に嫌な思いをさせられたことがある場合は、私を批判し、必ず誰かに愚痴ってほしいと思う。プライバシーへの配慮を気にしすぎると、性的接触の語りは憚れるが、性に関する悩みや行為への不快感は匿名性を利用して、どんどん外に出すべきだ。傷つけ傷つきながら、もがきながら、誰にも自分の身体を奪われずに、心を強制されずに、生きていけるといい。共に生きていきましょう。

 

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 先日『江古田ちゃん』の最終巻を読んだ。「相手にいくら欲情されようと、私の身体は私だけのものなんだ」というセリフにやられた。それに尽きると思う。自分の身体を取り戻せたらレインボーうれぴっぷるですよ。終わり。

結婚することになった。

結婚することになった。

2015年がスタートして、今年の抱負何にしよう。そうだ。結婚しよう、と思った。知人友人に「結婚しませんか」と提案していた。そんなある日、かわいこちゃんが共通の知人である男性との仲人を名乗り出てくれた。契約結婚前提で、互いの条件挙げていったらなんというか「そういう雰囲気」になっていった。この人でなくては駄目、という感銘みたいなものはないけど別に悪い感じもしない。人生はタイミングだし勢いである。よーし一発やってみよう。というノリで、結婚することになりました。私からは以上です。