blog.922(移転しました )

こちらへ https://kmnym.hatenadiary.jp/ 

独占しない関係について

何年か前、当時の恋人にむかって、封の開いたコンドームの箱を眺めながら「他の子とセックスするときに残りのやつ使いなよー」と何気なく言ったら、ものすごく嫌な顔をされて喧嘩になったことがある。

 

ずっと、恋愛関係と呼ばれるような他者との親密な契約関係を作るのが苦手だった。それは、少し一般論からずれている自分の感覚を言語化して目の前の相手に伝える努力を怠っていたためである。「わかってもらえない(そしてむしろ煙たがられる)」恐怖に怯え、自分の感覚を隠してきた。だから、16歳以降、まともに人間とお付き合いできたことはなかった。

 

私は「独占欲がもたらす苦しさ」の人生の優先度を低く設定している。そのため独占欲が結構薄い(ということになっている)。そうすると、同時期に複数の人間と恋愛・性愛関係に至る可能性を持つポリアモリーやオープンリレーションシップという概念に親和性を持ってくる。

 

【ポリアモリー(polyamory)】

 ウィキペディアから引用すると、つきあう相手、親密な関係を同時期に、一人だけに限定しない可能性に開かれていて、全ての関係者が全ての状況を知る選択が可能であり、全員がすべての関係に合意している、という考え方に基づく行為、ライフスタイル、または恋愛関係のことである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%83%BC

 

【オープン・リレーションシップ(open relationship)】

それに対して、オープン・リレーションシップは、恋人同士がお互いに他の人と関係を持つ事を認めている関係。いわゆる「浮気」や「二股」との違いは、お互いに同意の上で他の人と関係を持っている部分である。その関係が婚姻関係を含む場合もあって、それをオープン・マリッジ(open marriage)という。

ポリアモリーと混同されやすいが、厳密には違うものらしい。例えば、オープンリレーションシップが風俗通いやワンナイトラブをOKとする「継続的でない割り切りの関係」「体だけ」であるのに対し、ポリアモリーは同時に複数間での「恋愛または性的感情」「付き合う」を始めから想定していて、「みんな仲良し」という感じ。

 

 

ポリアモリ―的な実践を目指して、「一度に複数と付き合います」と了承を得たうえで、一度に2人の恋人を持ったこともある。今(この記事を書いている現在)は、パートナー(恋人)は1人がよいが、その相手が私以外とセックスをしても、特に不快感は持たないので「セックスパートナーを恋人に限定しない」関係(オープンリレーションシップ的な在り方)が一番しっくりくるし、自分が穏やかな状態でいられるという結論に至った。

 

しかし、「誰とでもセックスすること」を無条件に肯定しているのではない。「セックスパートナーを恋人に限定しない」関係が気持ちよく成り立つためには、最低限、以下の条件が必要であると思う。

条件① 性感染症・妊娠のリスク回避ができているか。(リスクが生じた際、相手が誰だかわからない状態は大きなトラブルを生むだろうし、無責任な接触は結局誰のことも大切に扱うことができない)

条件② 自分の寂しさを他者で穴埋めさせる消費的な接触、相手の心身をまったく思いやれない暴力的な接触、行為中・事後、不快感やトラブルが伴う後味の悪い接触ではないか。

 

次に、「独占的な関係でなくていい」と恋人契約をしても、実際一緒に居続けていけば、予想外の展開に陥ることは結構ある。思いもよらぬ嫉妬感情の発生などがそれにあたる。そのとき、片方が不満に感じた部分を伝え、納得するまで話し合うか、契約内容を修正していく(たとえば限定的な性交渉にルール変更する等)といった努力の積み重ねから逃げてはいけないのだ。

コミュニケーションに相当な困難を要していた自分がようやく気付いたのは“相手を尊重する”とは、自分が傷つかないことを第一に優先する、自分の在り方を押し付けるのとは反対の行為であったということだった。

 

「恋愛関係(付き合うという契約)」を疑いつつも、とても大切なものだと考えている。独占欲は極めて薄いが、相手の存在に執着していることに気付いたとき「名づけ」を必要とし、関係に名前が付くことでさらに執着してゆくというパワフルで衝動的な幻想的な試みをどうしても好んでしまう。

 

私は、恋人にしかり、大切だと思う人には豊かな経験をたくさんしてほしい。世界は絶望的に広く、掬いきれない景色であふれている。「相手の幸福のすべて=自分との関わり合い」では決してないはずだ。自分が贈ることのできない類の豊かさがあり、私以外の人がもたらす幸福も、それらの人と相互的に作る幸福もあるはずだし、私の親しみのない分野(趣味や学び等)と出会い、幸福を感じることもあるだろう。もちろん恋人という当事者間で作っていく幸福や時間共有の面白さがあることは言うまでもないが。

 

その考えの延長線上に、「セックスパートナーが“私”に独占されないこと」がある。自分以外の人とセックスすることでその人の世界がもっと豊かになるのなら、それはそれでハッピーなことだと思っている。愛するひとの世界が狭まるのでなく、広がってあるいは深まって鮮やかになることがうれしい。それを近くで眺めているとき、終わりのない本を読んでいるような、わくわくと旅をしているような、不思議な気分になる。

「恋愛関係(付き合うという契約)」の面白さは、その楽しかった継続的な時間が、少年誌で起こる突然の連載終了、みたいに不安定である部分にあると思う。かならず想像外の別れがあり、永遠を願った夢は打ち砕かれ、「恋人」の名前を喪った後に、何者でもなくなった個人だけがぽつんと取り残される。

 

 

しかしこれだけ熱く語ったが、自分が心身疲れて余裕のない時に、恋人が自分を置き去りにして他人とイチャイチャしていたら、「嫉妬」「ショック」とかではなく「ああ、だるいな…」と勢いあまって別れを切り出してしまうことを想像できるくらいには私はそんなに寛容でもないのだった。

18歳の時、バイト先でクールビューティーなお姉さんが語ってくれた「あー。彼氏と同棲してたけど浮気されて別れたんだよね。でも相手金がないから家出ていけなくてさー、同居人として今でも一緒に住んでいるんだわ」という話が面白くて、今でもよく思い出してしまう。

 

 

 

*補足として

この文章でいう『恋愛関係』とは、付き合うという契約を伴うものとした。加えて、『セックス』とは、異性間あるいは同性間・Xジェンダー間等の、性欲の共有を伴う性的接触(性器の接触や挿入に限定されず、性的なニュアンスのキスやペッティングも含む。) を指した。しかし、共有感のない、片方が性欲を一方的に満たそうとする行為はセックスではなく「性暴力」になりうると私は考える。金銭等でサービス提供をする同意が取れる場合には「性労働セックスワーク)」として成り立つ。とにかく、『豊かさ(自由)』とは対極にある、NOの言いづらい、義務感や強制力が楽しさを上回る「仕方なくする」セックスは心身を消耗させるから、そんなのやらんでいいのです。(大声)

 

本文には特に記してはいないが、性的接触を要さずに成り立つパートナー関係もある。あくまで、目の前の人間が、どういう「恋愛観」「性愛観」「パートナー観」「浮気の捉え方」「独占欲の強度」「セックスの必要度」を持っているかは様々であり、その都度、オリジナルでスペシャルな関係が出来上がるわけで、そうだな、非常にめんどくさいな。

「フランシス子へ」を読んだ

忘れがたいっていうのは、つまり好きってことなんでしょうね。-吉本隆明

 

 

フランシス子へ

フランシス子へ

 

 

 

 今日、誕生日おめでとう、と書かれた手紙が自宅に届いた。もう十年の付き合いになる彼女から、十年間の思い出が写真つきで語られていた。「一緒にいておもしろかった記憶を思い出せる」と書いてあったが、私はつらかった記憶しか思い出せない。なにより、お互いに、どんなことを会話したのかは覚えていない。まったく相手のことを理解していなかったために、大きな愛の物語だったと記憶している。

 

「フランシス子へ」も、愛するものへの手紙である。吉本隆明が亡き愛猫フランシス子に宛てた手紙である。

「僕にとって特別な猫であることはまちがいないんだけれども、どんなふうに特別であったかを言葉にしようとすると、これといって特別なところはなんにもなかった。でも自分の執着のしかたを見ていると、やっぱりなにかあるんですよ、きっとね。でもその何かっていうのを言葉で言うのが難しいんです」と彼が告げるように、愛猫・フランシス子は「わからない猫」であった。愛するものの価値や理由の中身を語れば語るほど、「愛している」が離れていくのがわかる。なので、「愛している」は沈黙の中でしか持続もしないし育たないのだけれど、「どれほどか」が一切語られないので誰にもよくわからない。別れるときだけが、言葉を生む。分娩台に横たわる母親の肉体からひょこっと出てこようとする胎児のように、別れた後にはずっと黙っていた言葉が内側から流れてくる。心と身体の狭間の何か、断定できない何かをどうにかして外に出そうとする動きに心打たれるが、そのときも私たちは、喪失は言葉では埋まらないこと、不可能であることを知っている。

 

 

 

死者との添い寝

眠れる美女 (新潮文庫)

眠れる美女 (新潮文庫)

 

 

  別れの一つ、対象の死。川端康成の小説「眠れる美女」では死んだように眠る裸の少女と添い寝する男が登場するが、彼女からの応答はない。ピーター・グリーナウェイの映画「コックと泥棒、その妻と愛人」でも逃走に疲れた女は愛する男の死体と一晩添い寝するが、彼からの応答はない。それは共に居ると言えるだろうか。非臨在の永遠が約束されている。もう二度と、失うことができない存在になる。既に眠ってしまっている者に語りかける言葉は、追悼文であると思う。今年四月のわたしはこんなことを呟いていた。

「睡眠は不在と同義である。愛しさは、取り残された僕が不在であるあなたに囁く『おやすみ』でしかあらわせない」

あなたを愛している、という告白は、あなたがいなくなった後にしか、言えないのだ。失った後しかあなたへの私の思いを私は知ることができない。

 

 

センチメンタルな旅・冬の旅

センチメンタルな旅・冬の旅

 

愛する者が死んだことがない。愛せなかった者に対する追悼文しか書いたことがない。なので、愛する人が死んだとき、手紙を書けるかはまだわからない。今年、宇多田ヒカルの亡き母に対する追悼文を読んだ。去年は荒木経惟の「センチメンタルな旅・冬の旅」(妻が他界するまでの数か月間の写真集)を読んだ。(この時写真が別れの言葉を代理することもあるのだと知った)

これらの手紙はすべて私たち第三者への公開文となっていることに驚く。一番届けたい人には届かないので代わりにわたしたちが受け取らないといけないのかもしれない。外に出すことは何を産みますか。わからない。

 

 

 

 

簡単に「悲しい」とか「さびしい」とか言葉にできないっていうのは「いや、本当にそうか」と疑ってしまうからだ。

 

 簡単に言えることなんて、そうありはしない。と吉本氏は言う。彼は「悲しい」「さびしい」という言葉がいつも出遅れてしまうのだと言う。本当は確かめようがないことを疑いもせず言い切ってしまったら、いわく言い難い中間がバッサリ省かれてしまうと言う。そんな「実在性」についてが、書かれている。生きるということは、どっちとも言えない中間を断定できないまま、ずっと抱えていくことじゃないか。性急な答えを求める風潮は、どこか嘘っぽいのだ。ほんとうのものは断定できない、矛盾したもの形のないものの中にあるんじゃ、ないか。

 

東京の街、鮮やかな欲が途絶えることなく並び続ける風景、仲の良い(と思っている)友人の前で「たのしい!」「ハッピー!」と、笑顔ではしゃぐ自分の姿は大袈裟でどこか嘘っぽい。確かに、快適で、快楽なのだ。しかし、永遠を約束しないので、どこか薄っぺらいのだ。すぐに消えてしまうものだから、と諦めている。それなのに、くるしみ、かなしみ、さみしさ、と呼んでいいかよくわからないそれと隣り合わせになるとき、何も語れなくなる。何も出てこない。体内で胎児を流産してしまって、何人もの死体が肉のなかを揺れている。どうしても私から別れられない命たち。諦められずに、涙が代弁してくれることもあるので、どんなに身体が壊れていっても涙だけは枯れないでほしい。そんな「私と別れられない私」さえもやさしく包みこんでくれるような一冊であった。

物語を完成させる - 添い寝原体験

今から一つの物語を完結させる。この物語は語らずにいたかった。語ってしまえば離れていってしまうからだ。言葉にすることで、語られる対象は殺されてしまうからだ。私の身体の中から、いなくなってしまう。しかし、それでも残ったものもある。言葉にならない・言葉では足りない・言葉では伝わらない感覚、確かに在ったのだと、全細胞が覚えている。冬になると、かならず蘇ってくる。あなたはもういないのだが、それを欠如だとは思えない。喪失の歓び。もとから、関係に名前はなかったし、果たされるべき未来を約束もしたこともなかった。互いのことなんて理解不能な猫たちが、ただふらっと寄り添って、ふらっと去っていく、ただそれだけだった。

 

 

 

「添い寝フレンドと呼んでいたあの人について」

 

いつからかはわからないほど昔から、性的なものが嫌いだった。もちろん「セックス」という単語を耳にすれば、不快感しか生じなかった。興奮の対象となるからだを巧みに誘導して、自分の欲を満たす行為だと、性的処理の道具として消費するなんて汚らわしい、ましてや妊娠や性病のリスクもあるのにそれは二の次で、快楽に溺れている、馬鹿じゃないの、気持ち悪いと。そうやってひとり足のつかない水中で溺れるようにもがき疲れていた。中学生になる頃には、性的な記号を受信するたび勃起するからだがあり、豊満な美味しそうな肉となるからだがあり、経血が我が物顔で生活に入り浸ってくる。何者でもなかった「ぼく・わたし」の身体は変化し、男か女かに分類され、「恋愛」というわかりやすい構造の中に回収されて、そこには必ず「性的なもの」がついてくる。その先には結婚というお決まりのコース、社会的な自己という安住。誰だっていい、代替可能のくせして「君しかいない、永遠に愛している」と妄想めいた形を発し、妥協の選択をして「性愛」「恋愛」に興じる意味が分からなかった。だから「性愛」も「恋愛」も大嫌いだった。

 

 

眠るとは死の予行練習ではないだろうか

 

こんな一節がある。

さみしさの周波数 (角川スニーカー文庫)

さみしさの周波数 (角川スニーカー文庫)

 

 

―孤独を感じて前後不覚になるようなおそろしい「ひとりっきり」を知るたび、まるで自分にはそれだけしか残されていない唯一の存在のように彼女がこの世界のどこか、同じ空の下に存在して、同じ時間を生きているのだということを考える。

彼女に対してあるのは恋心ではないと思う。もしそういう感情であれば、悩んだあげくにきっと告白していた。彼女の存在がいつのまにか自分の中で重要になったのは、もっと切実で緊密で単純な何かがあったからだ。何かというのをうまく説明はできないが、例えば傷ついてつかれきった魂がそっと寄りかかるような存在のことに違いない。

 

 

…“わたしたちは、「根源的に、寂しい」”…

 

永遠に全てをわかりあえないもの、目の前のあなたが別々のからだを持つ「自分ではないもの」であることを知っている。同時に、わたしは独りなのだということを知る。静寂の夜、ひとりで布団に包まれるとき、自分が自分であることから逃れられない。眠りに至る布団の中はもう一つの世界である。生と死の境界である。眠るとは死のうとすることとどこか似ている。

 

既存のものを全部置き去りにして、私とあなたは0として別れてそして始まる。1にも2にもならない。ただ、「あなたが存在している」という事実だけが、彼らを満たしたのだと思う。海がなにも理由を聞かないままでさみしさを抱きしめてくれるみたいに。

 

 

添い寝の日々

それでも、こんなの小説の世界の話だ。空想だ。理想だ。成りえないから、憧れるのだ。諦めた、でも諦めきれずにいた、二年前の夜の夏。

「帰り道、アイス食べて帰ろうか」とバイト仲間のKさんが言った。Kさんは、私の目からは男性にみえる生き物で、歩く速度と沈黙の速度が似ていた。

そして数日後の昼下がり、ひとつの漫画を差し出された。

放浪息子1 (ビームコミックス)

放浪息子1 (ビームコミックス)

 

 

「これ、好きなんだよね」と『放浪息子』を眺めて彼はつぶやく。「どういう話?」と尋ねると、透明な声で「男の子が女の子の格好する話だよ」と答えた。続けて、「おれは、男とか女とかいやでさ、中性的でいたいんだよ、性的なことも正直よくわからなくて、男友達のエロトークについていけなくて、いつも苦笑いになる、性的にじゃなくただ人に触れたい、けど、相手が女でも男でも恋愛の流れになってしまうし、あんまりうまくいかないんだ」と言った。

そこからだ。もしかしたら、この人と私は近い世界の住民なのかもしれない、だれもいないはずの孤独の星で自分と同じ生命体を発見したかのような興奮、冬のかさついた空気の粒一つ一つに体内の水分を含ませる、滑らかになっていく、潤っていく、世界が急速に色づいていく!私はこの人に出会いたかったのだ。「もうこんな人には出会えない」と言い合うけれど、「好きだよ」という言葉は一度も出たことがなかった。ふしぎなこともあるもので、決まっていたかのように、ほぼ毎日、疲れた足で立ち寄って、寄り添って、添って眠る日々が始まった。そこに、性のにおいはなく、「この人とはセックスも性別もないんだろう」という確信だけがあった。まるで、性分化する前のこども同士が浅いプールでじゃれ合うような、平和なあたたかい水の中。朝起きると、涙が出てくることもあった。ひとりの朝はいつも生きている心地がしない。生活らしきことを始めているのに、本当に目覚めているかわからなかった。自分しかいない空間には、自分の存在を認識してくれる誰かはいない。他者の存在がある朝は、私の存在も確かにあった。「存在しているだけでいいよ」と全空間に抱かれているような気がした。添い寝は、無条件の存在肯定をもたらす。目的も、頂点もない、沸騰もしない。ただ、在りさえすればいい。性別、年齢、出自、家族構成、容姿、職業、パーソナリティ、過去、今、未来、様々な要素は意識の外に出て行った。眼を瞑る。あなたの体温をつかみ、生命の鼓動に耳を澄ませる。同じテンポで踊る。――――― 融合する。

 

 

 

「私が他者の手を握ることによって、その人がそこにいるという明証をもつのは、それはその人の手が私の左手と入れ代わるからであり、私の身体が逆説的にも自らがその座となっている「一種の反省」のうちに他者の身体を併合するからである。私の二つの手が「共存」するのはそれらがただ一つの身体の手であるからである。他人はこの共現前の延長によって現れていくのであり、他人と私はただ一つの間身体性の器官なのである」

 Maurice Merleau-Ponty

 

 

 

 名付けも、継続の約束も不要だからこそ、成り立っていた。いつ終わるかわからない、だからよかった。どんな関係も必ず別れがある。突然それはやってくる。その事実にひたすらに誠実だった。いつのまにか共に秋を終え、共に春が始まる。するすると時が過ぎていく最中、私たちの関係は終わっていた。一緒にいる時間が増えるたび「好きだ」「付き合おう」「ずっと一緒にいたいね」という言葉が密かに芽生え始めてしまったからだ。そうすると、添いて寝るとき、違和感が生じた。存在以外のものを求め始めてしまっていたからだ。ちょうどその頃、生活環境が変わり、新生活も慌ただしくなり、距離を置くことになった。「もう戻れないのだ」そうやって、沈黙がまっすぐ背中を押した。

 

時は経過する。その間に恋人ができ、嫌悪感の生じないセックスができるようになっていた。数か月後、久々にKさんと会うことになる。相性の良さは変わらず、以前のように近所のクロワッサンの美味しいカフェで煙草を吸って、部屋のお香に癒されて、新宿に遊びに行けるのだった。ただ、もう添い寝はできなくなった。あの頃の感触は一切なくなった。ただしく、終わったのだ。あの時と同じ感覚を求めた日もあったが、その時のあなたはもういない。毎日、変化していくのだ。今日、昨日のあなたとは違うあなたに出会い、はじめまして、そうやって何度もくりかえす。ただ、あの日のあなたを喪っても「あの瞬間の感覚」を覚えている。はじめて、自分が生きている実感を持ち何者でもない個として存在する歓びを知ったあの感覚は、かならず必要であった。しかし、今ここで、その美しさに別れを告げる。言葉にしてしまうことは対象への侮辱である気がして、まったく足りなくて、いつまでも動けないでいる。

 

 

それでも、語れることと語れないことの中間のものを私はあきらめない。これからも伝え続けるから、わからないでください。